モンゴル文字のこと



ボヤンヒシグ


 モンゴル文字は左から右へと表記する。一つひとつの単語を文字にすると、長さが
それぞれちがうため、横書きには不適当でほとんど行われていない。


 この頑固な縦書き文字についてモンゴルの文学者B・リンチン博士は、それは何かを首肯きながら読むための文字に他なら.ないといったという。

 これは私見だが、なぜ左から右へど書くかというと、それはモンゴル人独特の考え方に基いているといえそうである。

 つまり、文化人類学的にいえば、モンゴルの男性的空間は北一上座一と西(右と同義語で一般的にバローンという単語が当てられる一で、女性的空間が東(下座、左と同義語で一般的にスゥーンという単語が当てられる)であるし、日常的にいっても、モンゴル人は左(左手のことをポローガルあるいはソロガイカルという。いずれも正しくないの意)から右(右手のことをスゥヴガルという。正しいの意)へ、外から内へ、東から西へと、いわば自信と安定感のある方向へものそ運ぶという習慣がある。例えば針先や刃物の刃などを内に向けて操ることなどがそれである。 


 文字もまた左から右へ、外から内へと表記するのが自然の作業となってくる。文字保護団体があればと願うほどめずらしいこの字体は、歴史に登場してから八○○年あまりもたくましく生きている。


 その長い歳月の中で、宗教や政治などの様々な原因により、一部地域において、一時期的あるいは今日に至るまで、他の文化圏の文字や表記法(たとえば横書き文字)に席をうばわれているが、、その生命力は今も衰えみことなく、息づいている。

 英語一色になヶつつある今の世界的風潮に一対してそれは何かを物語っていみにちがいない。文字というものをことば同様に生き物として、やさしく、平等に育てている天と人間に感謝しなければならない。
 私はモンゴル文字で、紙の上に、砂漠の上に、積った雪の上に、さらに鏡のような静かな水面に自分の夢を描きながら、少年時代を送った。

 大学に入ってからは中国語、日本語、フランス語を学ぴ、頭の中が随分にぎやかになっているにもかかわらず、モンゴル文字で何かを書く時だけは、いつもとちがった一種の深い興奮を覚える。モンゴル文字は私にとって永遠の故里であり、祖先からの最大の文化的遺伝でもある。他の国のことばで仕事そしている時も、邪魔にならないし、それどころか、私の心の形のない容器となって、どんどん豊かに膨らんでくるのを感じる。それ故に、私の心につねに底流となって流れているモンゴル文字への思いを詩に書くと、次のようになる。




上から左から書きます


自分の心の方向へ


自分の力の方向へ自分の魂の方向へ


そして時間が高さになり

広さは遠くからはじまってくる


ことに一つ一つが文字の

骨組みを持った肉体となり


地平線の上に降り立つのだ


悠久のテンゲル(天)からしたたる


ブルーのポローン(雨)のように 


太陽と月と星の光りのように

あるいはそのすぺてが織り成す


美しいカーテンのように


羊飼いの娘のはじめての恋文から


偉大な『蒙古秘史』までが


韻文と散文をまじえながら

このモンゴル文字で書かれたであろうことの


深い歓び




遊牧民が楽しんだ一瞬




駿馬から

離れたとうとする 速力

もはや手綱には

抑えきれない

すでに言葉は闇だ

すでにして方向は円だ

月が夜空で

精一杯嘶くしかない


            




非日常性





二羽の白い鳩が

小さな部屋の窓に

度々現れる


その都度 僕のペン先から

ひとつの危険な言葉が

滴ろうとした

何年かの後

雨が降った


二羽の鳩は黒ずんで

いつしか僕の双眼となり

僕はもう 部屋を出ていた

窓ガラスに裂け目がいくつ

空が痛むほど きれい

部屋は

すべてを知っているかのように

それからずっと空っぽだった




つづく