留学生文学賞シンボルマーク・HOMEへ戻る 留学生による日本語文学新人賞 留学生文学賞
募集(a) 審査結果(r) NEWS(n) スクラップブック(s) 留文書庫(l) 留学生文学賞BBS(b)
 

奨励作品賞

小説   明日、晴れ

張 秉涛

チョウ・ヘイトウ   男性  中国  1978年生まれ
受賞時:  広島経済大学大学院 経済学研究科修士課程

明日、晴れ

一   趙明(チョウ・メイ)

日曜日の朝六時五十分、趙明は、目覚まし時計よりも早く目覚めた。大きく伸びをして起き上がり、すぐ昨日の日付に大きな╳を付けた。カレンダーの余白に下手に書いたてるてる坊主と、日付に付けた二列の╳を見ながら、「帰国まであと一ヶ月と二日だ」と呟いて、カーテンを開けて外を眺めた。遠くに見えるこの小都市の町並みは灰色だ。今日も天気予報通りの雨だ。

趙明の気持ちも、天気のように曇っていて、なかなか晴れない。趙明は研修生としてこの小都市にやって来た。中国ではエリートで、溶接の天才と呼ばれた趙明だったが、日本に来てからは、自慢できる腕が自動溶接ラインのロボットに奪われてしまった。そして誰にでもできるきつい仕事を長期間やらされ、体は耐え切れないほど疲れてきた。日本語や日本の生活習慣などは三ヶ月間勉強していたが、来日後、言葉の問題だけではなく、文化の違いによる仕事上や生活上の問題も少なくなかった。問題を起こさないように頑張っている趙明は、いつも緊張していて、精神状態もだんだん限界に近づいていた。

趙明が、カレンダーで帰国のカウントダウンを始めたのは一年前である。その日の日記には、次のように書かれていた。

二〇〇八年七月十九日(土曜日)    雨

今の僕はもうボロボロだ。心身ともにボロボロだ。

今月の残業が多くなったせいかどうかわからないが、先週から腰がズキズキ痛くなった。肩も凝っている。もしかして、先輩のように病気になったのではないかと思って、とても不安だ。

しかし、僕は休みを取りたくない。隣の日本人の田中は疲れて休み届けを出したあと、すべての残業がなくなってしまった。一度休んだら僕の残業もなくなるかもしれない。できるだけ多く稼ぐために、無理やりにでも頑張ろうと思う。お金のことばかりを考えている僕の頭はおかしくないのか。きっとおかしいだろう。

疲れすぎたせいで、病気になって途中帰国した研修生のことを初めて聞いた時、「まさか…」と思ったが、心配しながらも体の中のSOSに気づかないふりをしている今の僕は、その寸前ではないだろうか。

同室に住んでいた孫謙は、昨日途中帰国させられた。「もう限界だ。狂う前に自分の国に帰ったほうがいいかも」と、彼が帰る前に言ったその言葉はよく分かる。来る前に、出国に対しての考え方が甘すぎた僕達は同じだ。僕はこの国の言葉さえよく分からない。分かるとしても、異邦人の僕は、この国のことがよく分からないため、好き勝手に動けないだろう。現場、寮、遠くのスーパーだけが、僕のこの国でのすべてとなっている。このような生活をもう二年間我慢した。人に笑われないように、怒られないように、一生懸命頑張っているのに、まだこの国の人間からよく分かってもらえていないと思う。僕はどうしてここに来たのか、僕にもよく分からなくなった。

ひどく疲れた僕は、今すぐにでもこの国から逃げて帰りたいけれど、帰ったら僕の出国を誇りに思っている故郷の家族や村人にどのように説明したらいいのか、そのあと何をしたらいいのか分からない。だから、帰ることさえも恐れている。家族を心配させたくないため、電話ではいつも「こっちはとてもいいよ。楽しいよ」と笑って喋っている僕は、一体誰をごまかしているのか。

とても疲れた。故郷に帰りたい。本当に帰りたい?いや、帰りたくない。いや、帰りたい。――自分の本音も出せない僕の頭は、やっぱりおかしくなったのだろうか。

帰国するまであと一年一ヶ月……早く帰りたいなあ。

一ヶ月前、「明のお父さん、最近頭が痛くて病院へ検査に行ったの。脳CTの写真に黒い影が映ったみたい。担当の先生が言うには、すぐ判断できないから、再検査が必要だそうよ」と、恋人の雪は、中国から電話で知らせてくれた。今日になっても、再検査の結果はまだ出ていない。父のことや自分のことで疲れ果てていた趙明にとって、毎日心配しながら過ごしたこの一ヶ月は、まるで地獄のような日々だった。

二   不運の朝

「今日もまた大変な一日だ」

ため息をつきながら、趙明は洗面所に入った。会社が借りてくれたこの高台にあるアパートの窓からは、この都市の半分が見られ、見晴らしは悪いとはいえないが、辺鄙なところなので、周りにスーパーや八百屋など店と呼べるようなものは一つもない。外へ通じる唯一の道も、とても狭く、車では通行しにくいものである。家賃が安いから、寮として使われ、いくつかの部屋に研修生が住み込んでいる。会社は麓の工業団地にあり、通勤は遠くないが、買い物は自転車で一時間以上かかる市内のスーパーに行かなければならないので、研修生達にとって楽なことではない。このために、日曜日の雨は趙明達が一番嫌なものになった。

「明―おはよう」

隣の部屋の李と王も起きた。趙明の物音を聞いたのかもしれない。この2LDKの部屋はもともと四人で住んでいたのだが、趙明と同室に住んでいた孫謙が途中帰国して以来、趙明は一部屋を独り占めしていた。

「おはよう」歯磨きをしながら、趙明は答えた。

「もうすぐ梅雨明けだと言っていたのに、まだ降っているよね!行きたくないなあ、雨に濡れてまで買い物に行くなんて。ねえ、何で僕達の運はこんなに悪いの? 買い物はまる一日かかるのに」李がまだ横になったままで言った。

月曜日から土曜日までは仕事だから、日曜日は買い物が日課となっている。必要なものをできるだけ安く買うために、趙明達はいつも朝のタイムサービスだけではなく、夕方の安売りも待っている。その間の昼間は、スーパーの近くの八百屋へ安売りの野菜を買いに行ったり、市内でふらふらしたりする。市内に行けばまる一日の外出になるのだ。

「運がいいとか悪いとかは関係ないよ。今は梅雨だ。早く起きないと、朝市の卵がなくなるよ」王が言ったのは、卵売り場でのタイムサービスだ。「チラシを見たんだ。今日は先着の200パックしかないよ」

「これも不景気のせいかな。いつも300パックだったのに。日本ではこの三年間、朝寝坊なんか一度もしなかったんだ。中国にいたときは、俺の日曜日はいつも昼の十二時からだったのに」文句を言いながら、李もグズグズ起き上がった。

多くの中国人研修生と同じで、趙明達は中国のごく普通の田舎出身である。学生時代の成績が良くなかったか、家が貧乏だったかのせいで、大学へも行けなかった。大学入学試験に落ちた趙明に、「もう一回チャレンジしてみろ」と父は言ったが、家に負担をかけたくない彼は就職の道を選んだ。仕事に専念していたため、彼は驚くべき短期間で部門のリーダーになった。しかし、工場で溶接の天才と呼ばれたものの、彼の給明日 、 晴れ4849料はずいぶん少なかった。工場の規模が大きくないし、景気も良くなかったからだ。

「国内より十倍以上の給料をもらえる」という理由で、研修生として日本に来ることを決めた趙明は、金を稼いで帰国したらマイホームを買って結婚しようとも思った。中国での給料なら、マンションを買うことなど夢のまた夢だった。

八時二十分、自転車置き場に趙明達が降りてきた。

「李、またお前のせいで、遅くなったよ」ほかの研修生達の自転車は、ほぼ全部出て行ったあとだった。

「ごめん、今度は早く起きるから。あっ、明―、お前のレインコート、破れてるじゃないか」駐輪場の看板の角に引っかかったせいで、右肩に大きな穴があいてしまったのだ。

「くそ! 最悪だ。あぁ〜!」趙明は腹が立った。最近父のことで変な予感がし、心配も重なった趙明は、気が短くなっていた。

「大丈夫だ。もうすぐ梅雨明けだから。でも、最近僕達の運は良くないなあ……」

「李―黙って!」王は趙明に気を配って、李の話を打ち切った。「明―僕の部屋にセロテープがあるよ。とりあえず、あれで貼り付けよう。李―、待ってね」

「うん」趙明の顔色に気づいた李は、何を言っていいか分からなくなった。

いつからか忘れたが、趙明達の天気運が悪くなっている。シトシト降る雨の日は言うまでもなく、たとえ降水確率が20%しかない日でも雨に遭う日が珍しくない。これも趙明が変な予感に囚われ、イライラする原因の一つかもしれない。

スーパーに着いたのは九時四十分だ。開店まであと二十分あったが、入口の前にはもう長い列が並んでいた。来る途中で、うっかりしていて何度も車にぶつかりそうになった趙明に、李と王は何か話そうと思ったが、何を話していいか分からなくて、三人は無言で列に入った。

三   変な予感

列で待っている間、父のことを思いだした趙明の頭の中に、また変な予感が浮かび上がってきた。予感を恐れているうちに、孫謙のことを思い出した。趙明の予感は、孫謙に的中したことがある。趙明と孫謙は、中国での研修生受け入れ試験で出会った。受験番号が趙明の前だった孫謙は、日本語トレーニングの時も、ずっと趙明の隣に座っていた。性格が率直な孫謙は、すぐ趙明と何でも話せる友人同士になった。

「一緒に千里外の日本へ行くことができて、何かの縁かな」といつも喋っていた孫謙は、中国で日本語を勉強している間に、クラスの中で一番おとなしい女の子を好きになった。来日後、二人はずいぶん離れた所に配属されたが、手紙で連絡していた。普段は率直なことを言う孫謙だが、恋の方面では率直とは言えなかった。彼女に一度も「好きだ」と言ったことはなかった。ただ一生懸命彼女に尽くしていただけだった。

しかし、趙明達が工場に配属された二ヶ月あと、彼女からの手紙が急に途絶えた。孫謙の誕生月を境に、彼女から一通の手紙も届かなくなったのだ。ずいぶん落ち込んでいる孫謙を慰めていた間、趙明は変な予感がしていた。

孫謙の誕生日に届いた一通の手紙は、趙明の予感を裏付けた。彼女の同室の女友達からの手紙だった。

彼女は交通事故で死んでしまったのだ。

横断歩道がないところを横断している時に、彼女は車にひかれた。その日、彼女は友達と買い物に行き、帰ろうとした時、急に友達に「ちょっと待ってて」と言って、再びスーパーに戻った。スーパーから出た彼女は、友達を追いかけるため、遠回りになる横断歩道を渡らなかった……

彼女の鞄には、ドラえもんのストラップが入っていた。たった今、スーパーに戻って買ってきたものだ。どうしてわざわざ戻ってそれを買ったのか、彼女の友達には分からなかったが、趙明はよく知っていった。孫謙は、ドラえもんファンだったのだ。

その誕生日に、孫謙はすべてのドラえもんに関するものを捨て、徹夜で泣いた。あの日も雨がシトシト降る日曜日だった。

あの日以来、孫謙はずいぶん落ち込んでいた。気持ちがちょっと悪くなったら、突然泣き出すこともよく見られた。仕事はいつもばっちりとできていたが、ぼんやりしていたこともたまにあったので、大先輩の三宅に「ボケもん」と言われていた。

三宅は十八年前に入社した。溶接課の課長と同時に入社したことを誇っている彼は、よく部下をいじめていた。趙明達が工場に入ってからの一年間で、三名の日本人新入社員が彼にいじめられて会社を辞めた。彼は研修生と一緒に働くのが大嫌いだと言っていたのに、三人目の新入社員が辞めたあと、趙明と孫謙は彼のラインに配属された。研修生ならば勝手に仕事を辞めることができないからかもしれない。

「外国人研修生をいじめるな」と課長からの警告が効いたのかもしれないが、最初の一ヶ月は無事に過ぎた。しかし、そのあと、趙明と孫謙は三宅にいじめられて、トラブルが絶えなかった。

どうしてこんな人間を会社に残すのか、二人にはよくわからなかったが、やられすぎたとき、二人は課長に苦情を言ったり、ラインを変えてほしいと願ったりした。しかし、「三宅を後で叱っておく。彼は悪い人ではないよ。ちゃんとコミュニケーションを取ったら、仲良くなれるよ。がんばってね」と何回もあしらわれた。

孫謙が帰国させられた二週間前からも、趙明は「何か嫌なことが起こるかも」と変な予感を感じていた。その予感はまた当たった。エスカレートした三宅のいじめに耐えられなかった孫謙が爆発したのだ。三宅を殴ったあと、孫謙は希望帰国の名目で、一週間たたないうちに途中帰国させられた。会社との契約の中で、日本で喧嘩をしたら理由を問わずにすぐ帰国させるということが書かれているからだ。三宅は指導力がないという理由で、研修生のいない物流グループに異動させられた。

その事件以来、趙明は自分の変な予感を恐れるようになった。

四   渡辺の予言

十時、スーパーは時間通りに開店した。入口の台車から卵を取ったあと、趙明達はすぐ朝市の売り場へ走った。人に踏まれたり、人を踏んだりして、三人は限定の数量まで、玉葱、人参とじゃがいもなどを手に入れた。手が早い李はトマトも三個取った。

「今日は数が少ないので、一人一個にしよう」李は、趙明と王のかごにトマトを一個ずつ配って、休憩室の椅子を指差しながら、「ちょっと休もう、雨の日にもこんなに多くの人がくるなんて。大変だ」と言った。

「明―、ちょっと待って」王はうっかり前に進んでいた趙明のかごを引いた。「大丈夫か、君、顔色が良くないよ」

「えっ、大丈夫だ。何か…」趙明は、今の話を全然聞いていなかった様子だ……

休憩室に座ってから、李は趙明の体の半分が濡れていることに気づいた。穴に貼り付けたセロテープがあまり効かなかったようだ。

「明、寒くないか。ここのクーラーが冷えるので、先に帰っていいよ。僕は明の分も代わりに買うよ」いつの間にか、一番年下の李は大人らしくなった。

「うん、大丈夫だ。ちょっと休んだら元気になるから」寒気を感じた趙明は、そう答えながら椅子に座りこんだ。

頭が重くなった趙明は、あとの買い物を李と王に頼んで、先に帰ることにした。ふっと気がつくと、彼は帰り道からずいぶん離れた小さな公園にたどり着いていた。

この公園では去年ある事件が起こっていた。スーパーで万引きした一人の研修生がここまで逃げて、捕まったのだ。以来周りの住民は研修生に強い不信感を持っているそうだ。趙明は一度だけここに来たことがあるが、住民の変な目線を感じて、まるで自分も泥棒であるかのように逃げた。なぜ一人の研修生が悪いことをしたら、研修生全員が悪人に見られるのか、趙明は今でも分からないが、この公園をみたら、何か不吉な兆しが頭に浮かんできた。

変な寒気を感じた趙明は、自分の頭を強く叩いて帰ろうとした。そのとたん、

「明―」手前に止まった車の窓から、渡辺の顔が出てきた。

「明―、どうしてここに来たの?」

「あのう、道、…道、間違った」ほぼ三年間通っていた買い物の道を間違えることについて恥ずかしく感じた趙明は、日本語でどう答えていいか困り、たどたどしい言葉で弁解するように「でも、大丈夫。帰るの……道がわかる」と言った。

「そうか。今、暇だから、寮まで送りましょう」渡辺は、趙明のうつろな目線と破れた合羽から何かがわかったようだった。

「いいえ、大丈夫です。ありがとうございました」慌てて断る趙明の話が終わらないうちに、渡辺はもう車のトランクのドアを開けていた。

「はい、自転車は後ろに入れて。日本の梅雨は大変でしょう、明―、君の故郷には梅雨がないね」と話しながら、趙明の自転車をトランクに入れた。

「はい、乗って。私の娘です」助手席のドアを開け、後ろに座っている二人の女の子を紹介した。

「こんにちは」彼女達は先に、元気に挨拶をしてくれた。

「こんにちは、チョウ…メイです」

「リカです。メイ? トトロのメイ? トトロを見たことがある?」映画の登場人物の『メイ』と同い年のリカも好奇心いっぱいだ。

「違うよ、メイは女の子だし、ここにはトトロもいないし」二歳上の長女はよく知っているように素早く答えた。

『となりのトトロ』を見たことのない趙明は、二人の話がよく分からなかったが、彼女達の可愛い顔を見て、気持が少しよくなった。二人にちょっと笑って、車に乗り込んだ。

渡辺は会社の実力派である。仕事に熱心な彼は、パソコンでラインのプログラムもわかるので、来年から溶接課の副課長に内定したという噂もあった。趙明達が配属されて来た時、彼らのオリエンテーションをきっかけに、渡辺は研修生のことをよく調べて勉強していた。話題になった研修生制度の改革や、研修生の失踪、万引きなどの事件についても詳しく研究した。研修生制度をよりよく活かすため、今の制度を改革しなければならないと主張する渡辺は、研修生のことを理解し、援助するために、研修生とコミュニケーションをとろうと現場で呼びかけている。

車が走り出したら、後ろに座っていた子供は『あっち向いてほい』のゲームを始めた。二人の無邪気な笑い声を聞いて、趙明は自分の子供時代を思い出した。貧乏だったが、のびのびと育てられた。故郷の村の山や川のあちこちには、趙明と仲間達の笑顔が溢れていた。どこかで怪我をしたり、服を破ったりして帰った趙明を、母はいつも怒ったが、父は少し笑いながら、柳の枝でかごを編み続けていた。父が編んだかごは、地元で有名だった。しかし色とりどりの鞄が出回った現在、父のかごは売れなくなった。

父のことを思い出すと、趙明の顔はすぐ憂鬱になった。繰り返し左右に振れるワイパーを見ながら、趙明はぼんやりした。

「明―、最近元気がないね、どうしたんか」

「あのう…あのう…お父さんは病気だ……」

父のことを李と王にも伝えなかった趙明は、ついに父の病気や自分の変な予感を渡辺に語った。

渡辺は、彼の言葉の意味が分からなかった所だけを確認して、あとは静かに趙明の話を聞いた。

「明―、占いって知ってる?」

「うん?…」趙明は意味が分からなかった。

「人の未来がわかること、ほら、休憩室に本があるじゃないか。細木和子さん」休憩室には、誰かが持ってきた一冊の『六星占術』の本が置いてあることを思い出した。

「あっ、わかった」

「私も少し分かるんだよ」

「本当?」半信半疑の趙明。

「うん、大学で少し勉強した」大学で心理学を履修した渡辺は、嘘をついた。「明が元気になれば、お父さんも元気になるよ」

「なんで?」趙明はまだ信じていないようだった。

「明の運は、お父さんとつながっているからだ。明が元気になったら、天気も良くなるよ。だから元気を出して、頑張って。明の元気が、すべての決め手なんだよ」渡辺はそう予言した。

「……」どうしたら元気になれるのかよく分からない趙明は、言葉に詰まった。でも、心が温かくなった。

趙明を寮まで送った渡辺は、そのまま帰った。渡辺の車が見えなくなるまで見送った趙明は、寮へ帰ってすぐ風呂に入ったが、雨で濡れた体はまだ寒気が取れなかった。頭もひどく痛くなった趙明は、風邪薬を飲んで、寝転んだ。

五   明日、晴れ

夕食も取らなかった趙明は、月曜日の朝まで昏々と眠った。まだ熱があって頭も痛いので、休みを取った。今まで有給休暇を一度も取らなかった趙明は、初めて仕事を休んだ。

李と王が出勤したあと、趙明は雪に電話をかけた。今日は父の再検査の日だ。

雪は、趙明が出国する前いた工場で事務員として働いている。離れることが嫌だと言って、趙明の出国に対して反対だったが、家族と離れて日本で研修している趙明の辛さもよく理解している。趙明が出国したあと、彼女はいつも手紙で趙明を励ましている。祝日には趙明の代わりに田舎へ行って、趙明の両親と話したり、助けたりしている。あまり人を褒めない趙明の父だが、いつも村人の前で、彼女を褒めている。

「病院はまだ開いていないよ」と雪からの話を聞いて、趙明は初めて自分の間違いに気づいた。日本は、時差の都合で中国より一時間早いのだ。

「今日は、どうしてまだ出勤していないの」気のきく彼女は日本時間をよく知っている。

「あぁ、今日は休みだ……実は昨日ちょっと風邪をひいたんだ」風邪のことを知らせたくなかった趙明は、休んでいることがばれたので、しょうがなく答えた。

「薬を飲んでいる? 大丈夫?」心配な声だ。

「もうまったく平気だよ。会社の人が優しく心配してくれて、どうしてももう一日休んでくれって言ったので、しょうがなくて休んだんだよ」趙明は、また嘘をついた。

「そう。それにしても、油断しちゃだめだよ。ちゃんと薬を飲んで、ゆっくり休んでね。会社の人にありがとうって言うのを忘れないでね」幼稚園の子供に話す母親のような口調の彼女は、趙明の話を信じた。

「はい、はい。分かりました」

電話を切って、趙明は電話ボックスから出た。いつの間にか雨がやんでいた。空もやや明るくなった。遠くの町並みも久しぶりにはっきり見えた。麓へ向かって思い切り大声で叫ぼうとしたが、趙明は深く息を吐いて、やめた。以前、王は彼女に捨てられて大声で叫んだ結果、周りの住民に会社まで苦情を言われ、総務課長にひどく怒られたのだ。そのため、王は罰金も二万円払わされた。周りの住民に迷惑行為などを絶対にしない、と言う会社の規定があるのだ。

趙明と同じで、王の彼女も彼の出国を大反対した。何十回話し合ったあと、ようやく同意してくれた。しかし、王が出国して一年後、彼女から別れようという手紙が届いた。困ったことがあっても、彼氏がそばにいない生活なんて、どうしても耐えられないという理由だった。中国へは何度も電話したが、彼女は一度も出なかった。この電話ボックスから出た王は号泣しながら、「終わった! すべてが終わった!」と、麓に向かって叫んだのだ。

趙明が彼を理解する恋人を持っていることで、趙明は、研修生の中で一番幸せなやつだ、と王はいつも言っている。雪のことを思い出したら、趙明は体がちょっと軽く、元気になったように感じ、そのまま寮に帰った。空腹で風邪薬を飲んだら体に良くないと雪はいつも言っていたから、食欲がない趙明は、少し食べてから薬を飲んだ。そしてまた昏々と眠った。

趙明は夢を見た。

雲一つない晴れた日の夕方、趙明と父は海辺の砂浜を歩いている。父は中国の内陸部に住み海を見たことがなかったので、趙明はぜったい海を見せてやると約束していた。父は楽しそうだった。約束を叶えることができた趙明も楽しかった。

夕日の中で、父の白髪混じりの髪を見ながら、ぼうっと立って笑っているうち趙明に、父は「お前はもう一人前の男になった。どんな困難があっても、負けるな。男らしくがんばりなさい。お母さんと雪ちゃんの世話も頼むぞ…」と言いながら、だんだん遠く夕日の中に消えていった。

「お父さん!お父さん!……」父の消えてゆく影を追いかけながら、趙明は、必死に叫んだ。

「明―!明―!」目覚めた趙明は、李の顔を見た。

「嫌な夢を見ただろう。汗もいっぱいかいたし。まる一日寝ただろう。早く乾いた服に着替えよう、今日はおいしいものを作ってやるよ。王も早く帰りたかったけど、ラインが忙しくて帰れなかった…」仕事が終わって帰って来た李が話しているところを、趙明は急に立ち上がって、外へ走り出した。

「えっ、明―、どうしたんだ」李は、乾いたシャツを持って追いかけてきた。

趙明は、一気に電話ボックスに走りこんだ。電話に出たのは雪だった。

「病院から帰ったばかりで、連絡しようと思ったところだったの…」

「お父さんはどうした、大丈夫か」趙明は、息をハアハア言わせながら聞いた。

「大丈夫よ。お父さんの頭痛はストレスによる神経痛なんだって。ゆっくり休んだら治るって先生が言ってたよ…」

「よかった! やった!」思い切り叫んで笑った趙明の様子が、まだ理解できない李は、電話ボックスの外で頭を掻いた。

「ねぇ、明の風邪はよくなったの? 何で息がハアハアいってるの?」

「ハハ、もう大丈夫だ。病気はすっかり治ったよ。帰国まであと一ヶ月しかないから、頑張るよ。僕の帰国を楽しみにしていてね、最後まで頑張るから」と言いながら、渡辺の言葉を思い出した趙明は、空を見上げた。

まだ曇ってはいるが、太陽が沈むあたりの雲がオレンジ色に変わった。雨を浴びた遠くの町並みはその色に染められ、とてもきれいな風景だ。

王が帰った時、趙明はもうぐっすり眠っていた。消し忘れたテレビから天気予報が流れている。「明日、晴れ……」


↑頁先頭へ(t)

Web Design © DIGIHOUND L.L.C. 2005-2010

Valid CSS! Valid HTML 4.01 Transitional