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奨励作品賞 CASA賞

小説   母と娘のゴールデン街

金 珉廷

キム・ミンジョン   女性  韓国  1976年生まれ
受賞時:  東京外国語大学大学院 総合国際研究科地域・国際専攻博士前期課程1年

母と娘のゴールデン街

一   異邦人の故郷、だれしもの新天地

東京タワーなど見えやしない。せっかく東京なのに。

都庁の影すら見えない。せっかく新宿だというのに。

新宿歌舞伎町。おしゃれな東京のイメージからほど遠い真っ赤なネオの隅々から、人々の息遣いが聞こえてくる。潜めていた息もここでは酒の力を借りて、ときには大きな歓喜へと、ときには嗚咽へと変わっていく。

ここは異邦人の街。故郷を捨てお金を稼ぎにやって来た若い女性にも仕事をなくしタクシーの運転席に座っている男性にも妙に心地いい空気が流れている。お酒の匂いが混じっているものの、歌舞伎町の空気は吸うだけで気分を落ち着かせてくれる。

タイやフィリピンから来たホステスさん、新橋勤務のサラリーマンさん、環七の工事現場のおやじさん、おいで、と街はささやく。アフリカからアメリカ、それから韓国を渡ってここでチラシを配る黒人も、事業が失敗して逃げ込んだ外国人も、好奇心旺盛でやってくる旅行者もここでは不思議とみな、平等だ。日本語ができる人もできない人も、ビザがある人もない人も、日本国籍者も他国籍者も同じ酒を飲み、同じく歌い、同じく踊り、本音をぶつけ合い、同じ時間を共有する。「おくには?」と聞かれたら、誰もが「新宿」だと答えるに違いない。

それぞれの悩みや苦しみをのみ込む街、新宿。笑顔で歩く人々の奥に何が隠れているのか、そんなことに気を取られる必要はない。お酒を一杯傾けただけで、悩みなどふき飛んでしまうものだから。「おらは死んじまっただ」なんて歌もここでは必要ない。ここは死なずにして訪れることができる天国なんだ。こんなごちゃごちゃの天国なんてありえない? さあ、本物の天国なんて見たことがないから、本当のことは言えないけれど、天国なんていうのも世界中の様々な人間が集まっているから、意外とごちゃごちゃしているかもしれないよ。この雑然とした中にある優しさに気づいてほしい。貧しい人も富める人もみんなコップ一杯の夢で精いっぱい酔える。そんな街はそうそうあるものじゃないさ。誰かにとっては思いっきり空気が吸える場所、それが天国だったりするものだ。

さあ、大きく息を吸って、吐いて。

二   ゴールデン街「パウ・ブラジル」

「お母さん、お店やることにしたから」

あのときとまったく同じように母が言う。あのときもそうだった。何のためらいのない口調で(何も悪いことはないのよ、何も不安がることはないのよ)、こう言い放った「これから二人で日本に暮らすの」と。母はあっという間に荷物もまとめ、あっという間にチケットを購入し、あっという間に新宿に部屋を借りた。それから数日も経たないのに、今度はお店を出したいと言う。「へえ」と口を開けることはなかった。「そうか」とうなずいただけだ。

「ゴールデン街って新宿にちょっとおもしろいところがあって、一つ店が開いたっていうから、やってみることにしたわ」

「お店って何をやるのよ」

「居酒屋」

「一人で大丈夫?お酒飲めないでしょ?」

「そんなこと言ったって……、ねえ、食べてかなきゃ。あんたの進学もあるわけだし。生きてかなきゃならないし」

私は黙るしかなかった。生きていかなきゃならない。そう、生きていかなきゃならないから、ここまでやってきたことに、改めて気付いた。父との決別が持たしたものは命を食いつないでいかなきゃならないという当たり前の義務だった。

その夜、母とともにお店に向かった。歌舞伎町を横目に、区役所まで。ミスタードーナッツの横にある広いが薄暗い歩道をなるべく母にくっついて歩く。母のスカートの裾から細くて形のいい脚がそそくさと路地へと入っていく。小さい居酒屋がびっしり立ち並んでいる。

「ここよ」

お店ではすでに不動産の担当者が待っていた。

「ここの天井には小さい部屋があるんです。いまは入れないように閉めてますが。あの押入れは昔はお風呂だったんですよ。赤線の名残です」

聞いてもいないことを彼はあれやこれやと説明する。畳十畳にも満たないお店だから、特に説明することがないからかもしれない。

90年代半ば、ゴールデン街で外国人がお店を開くことは大変めずらしい出来事だった。担当者は母に「実は、韓国人にお店を貸すのは、はじめてなんです。いや、ほかの外国人にも一度も貸したことはありません。うちだけじゃなくて、外国人はここに入るのが大変なんですよ。だから、ゴールデン街の外国人オーナー第一号になるわけなんです」と言った。母は「ええ、そうですか」と短く答えた。外国人にはめったに貸さない物件を貸している。ありがとうと言うべきなのか、それとも何も言わなくてもいいのか、私にはよくわからなかった。

「ところで、あの看板のパウ・ブラジルって何ですか」

「さあ。前のオーナーがつけたんですが……。たぶん、木の名前だと思います」

「木?」

「ええ、ブラジルの国の名前になった木だとか」

パウ・ブラジルか。葉っぱは何色? どんな花を咲かせるんだろう? その実は食べられるの? その前に実がなるの? なるとしたら、どんな実がなるの? 疑問は絶えなかったが、母も私もその答えを知るよしはなかった。

「ねえ、お母さん、どうするの、看板」

「別にいいのよ、名前なんて」

結局、母が看板を変えることはなかった。

三   転校生

母がお店を始めた頃、私は日本語学校を終え、いよいよ高校に入ることになった。日本の高校もあったが、日本語が不自由なこと、いじめに会うかもしれない不安から、東京にたった一校しかない韓国高校に決めた。正直、選択の余地はなかった。どうすれば日本の高校に入れるのか、お店の仕事で忙しい母にその方法を調べる余裕は少しもなかったし、一日も早く学校に復学するためにも、韓国学校が最も適切な選択だった。

「ソウルから転向してきたハン・ウンジさんよ。みんなよろしくね」

歓声など起きなかった。生徒たちは静かに教科書を見ているか、窓の外を眺めていた。

「ウンジさん、右から二番目の席について」言われた通りの席に着いた。久々に会う韓国人にホッと胸をなでおろした。隣の女の子の名前を聞いた。

「……」

「何?」

「イ・ユンジョン」

それだけだった。よろしくなどと彼女は口にしなかった。顔の表情一つ変えず、目を合わせることも、社交辞令のように微笑むこともなく、名前だけをつぶやいた。休み時間になっても転校生の私に声をかけてくれる子は二、三人しかいなかった。同じ韓国人だから、仲良くできるかもしれない。そんな期待は転向してたった一時間で崩れ去った。

翌日、またもや転校生がやってきた。

「転校生のカン・ヒョジンさんよ、よろしくね。あ、それに今日はキム・ミンスさんが韓国に帰るの。各自さようならしておくように」

先生の言葉はそれだけだった。たった二日で新しい転校生は私一人ではなくなった。さすがに次の日に新たな転校生がやってくることはなかったが、月に数回転校生が来て、また名前すら覚えていない誰かが韓国へと帰っていった。ときにはアメリカへ、ときにはフランスへと。生徒の九割は、親の都合で来日していた。六割は、韓国の大使館や大企業の駐在員の子どもだった。引っ越しと転校が日常茶飯事だった。大使の娘のソンはドイツとフランスと日本を経て、中国へと向かうそうだった。某電子メーカーの息子・チョはタイとカンボジアを経てこれからロシアに向かうそうだ。顔と名前が一致する前に誰かが日本を去り、どこかへと向かった。顔と名前が一致して、ほんの少し腹の底を見せるようになると、また誰かがこの地を去っていった。勉強よりも身に染みるのは「出会い」と「別れ」だった。だからか、クールな顔が流行のようになっていた。迎え入れるときも、見送るときも、表情を隠し、微笑むことを避け、軽い会釈を交わす。誰かを見送る日はとてもさびしい気持ちだったが、「元気でね」とだけささやいた。こうした環境だから、仲良くなりすぎることは命取りだった。

「受験は日本、それとも韓国? 特例入試も最近厳しいんだって。終わったらすぐ塾だよ」

帰国子女枠の特例入試を受けるためにわざわざ日本までやってきて一人暮らしをする生徒も数人かいた。気の抜けない重圧感は学校中に漂っていた。みんな、教科書を眺めるか、窓の外の風景に気を取られた。

「深く愛することはやめましょう/別れの際は軽い会釈を交わしましょう」。『共存の理由』… (注:韓国の現代詩人ト・ジョンファンの散文詩) と題されたその詩が教室の壁に貼られていたことに気付いたのはいつだろう。きっとこの学校の先輩か誰かが書き写したに違いない。そう、ちょうどそのくらい。軽い会釈で別れられる関係でいましょうと私は何度も心の中でつぶやいた。受験の重い空気が教室を舞った。ゆらゆら。その空気が肺の中でゆらゆらと揺れた。

四   セーラー服とゴールデン街

セーラー服なんて見たこともなければ、着るなんて想像もしなかった。東京で唯一の韓国高校の制服であるセーラー服に袖を通しながら、母に言った。

「ねえ、それにしても、本当にいいの?」

「何が?」

「お店の名前だよ。だって韓国料理がメインなんでしょ? マッコリだって出すよね。なのに、「ブラジル」なんて変じゃない?」

「まあ、別にいいのよ。形なんて」

母はいつものように明るく笑った。母によれば、「看板なんてどうでもいいの。客が来てくれればね」だそうだ。ソウル生まれソウル育ちの母はいつも豪快だった。小さいことは気にしない。それに、大切なこととそうでないことを区別することに長けていた。名前なんてどうてことない。大切なことはお店をきちんと切り盛りすること。どこに暮らすかなんてどうでもいい。人間としてがんばることが大切。お金なんてどうもいい。でも、ないと暮らせないわ。でも必要なのは大金じゃなくて、どう使うかよ。

セーラー服といえば軍服を真似て作られたものだが、それより先に思い浮かぶのは、どうしても日本のアニメや漫画だった。手足の長い美少女たちが真っ白いセーラー服を着て口角を上げて微笑む。頭の中はセーラー服の美少女でいっぱいになった。着るたび、「かわいい?アニメの女の子みたい?」と母に聞いたくらいだった。

それにしても韓国高校なのに日本の高校と同じセーラー服の制服なんてほんの少し照れくさかった(でも、かわいいからいいか)。韓国料理がメインの母のお店に「ブラジル」なんて看板が立っているのを見たときに感じる違和感と同じだった。でも、きっとそんなはどうでもよかった。より重要なことは私には受験が、母にはお店の仕事が圧しかかっているということだったから。

「これは?」

「『らしょうもん』だよ」

「何ですか、それは?」

「だから、この小説のタイトルが『羅生門』さ」

「何か意味があるんですか、その、らしょもんに」

「ら・しょ・う・もん。うをのばして」

「ら・しょー・もん」

「昔のね、朱雀大路にあった門でね、それを芥川龍之介が小説にしたんだ。芥川龍之介って知ってる?」

「ええ、名前だけ」

セーラー服の私は首をかしげながら、答えた。

「芥川賞って日本の文学賞があってね。芥川は『蜘蛛の糸』とかおもしろい小説をたくさん書いてるんだ。短編が多いから、少し読んでみたら?」

「ええ」

韓国高校では日本の教科を学ぶ時間があり、日本史、国語(日本語)は必修科目とされていた。わからないことがあると、私はすぐに「パウ・ブラジル」を訪ねた。

「それは「まつおばしょう」と読むんだよ」

「ルビを書いていただけますか」

「よし。ノートを出してみな。これは「おののいもこ」ね」

「いもこ?」

ノートを広げながら、一生懸命にその言葉を口にする。まつおばしょうに、おののいもこ。そう言ってみるものの、心ではこう叫んでいる。こんなの覚えられません!

「いや、違うよ。それは徳川家康だ」

「違うって。ぜったいに家光だよ」

「だから、本能寺の変だろ、家康だよ」

家康か家光か。私には到底わからないことだった。私の質問にあれやこれやと客同士でもめることもあった。店の客はもはや単なるお客さんではなくなっていた。漢字も歴史も文学も何でも教えてくれる人々がいつもそこにいた。

多くがマスコミで働く人だと、若い頃、新聞記者を夢見ていた母が自慢げに言った。そう、信頼できる家庭教師ということだ。毎日、お店に通ったおかげか、娘は羅生門を丸暗記するまでとなった。

それだけではない。寺山修司の名を知ったのも、安部公房の小説をはじめて読んだのもお店でのことだった。安部公房の小説はどれもおもしろかった。彼の小説の登場人物は誰一人、名前を持っていない。その名もない人間が、ある日突然、草になったり、木になったり、機械にされたり、宇宙人と遭遇したりする、日常ではありえない話を、彼は淡々とそしてリアルに文章にしていた。突拍子もない話だったが、突拍子もなく来日し、突拍子もなくお店をはじめた私たち親子には何となく理解できる話だった。生きていると突拍子もない何かにぶつかるし、生き抜くためには突拍子もないことをしなければならないときがやってくる。

客の多くは韓国から来た十七歳の娘に日本語や歴史を教えることを喜んでくれた。いつの間にか娘は客の小さい希望の光となった。「がんばれよ」「ぜったい、大丈夫」と励ましの言葉が飛び交った。私にとってその「がんばれよ」は、心の奥にまで届き、外国という日本を生き抜くための大きな支えだった。「ええ、がんばります。何があっても……」と心の中でだけつぶやいた。

「セーラー服の高校生がいるなんて、コスプレショップみたいだ」

「コスプレよりいいさ。本物なんだから」

たまに誰か冗談を言うと、誰かは笑い、誰かは黙って酒を飲んだ。

学校とゴールデン街を毎日行き来した。終バスに乗るために、新宿の地下街を歩くと、ときたま酔っ払いのおじさんに「お茶でもどう?」と誘われることもあった。娘はそんなことにもいつの間にか慣れていた。何も答えることなく、バス停までそそくさと歩いた。新宿の月は少しかすんで見えたが、それでもまだまだ明るかった。

五   受難の季節―娘の場合

学校が終わると歌舞伎町のカラオケ店は韓国語をしゃべる高校生で繁盛した。日本語が不自由で日本人の友達など一人もいなくても、なぜか日本の歌だけはすんなりと私たちの生活に入り込んだ。

「何にしようかな。杏里なんてどう? じゃ、あたしはこれこれ」

「あんたは竹内まりやのほうがお似合いよ」

「えー、やだー、ジュディマリのゆきちゃんって言ってよ」

「はやく入れて。時間制なんだから」

「はいはい」

あんなにクールだったユンジョンが『学園天国』を歌い始めた。タンバリンを手にして肩を動かしているのは先週やってきたウンミちゃんだ。尾崎豊のファンを自称するウンミちゃんが私に「アイ・ラブ・ユー」を入れるように、耳打ちした。

一通り歌が終わると、近くのマックに腰を下ろした。

「受験、どうするの、みんな?」

いつだって興味はそれだった。韓国に帰り、同じ帰国子女の枠で受験するから、友達は常にライバルであり、いい情報収集源でもあった。

「わたし、日本で受験するわ」と私が言うと、ユンジョンがびっくりしたように言い放った。

「そんなこと、できないよ」

「できないって何が?」

「日本での入試よ。知らないの? 韓国学校は卒業しても高校卒業の資格がもらえないの」

受験の資格がない。いったいどういうこと? 聞き返すこともできなかった。頭を何かに殴られた感触だけが残った。せっかく日本にいるのだから、日本で学びたい。それは素直な気持ちだった。それに韓国に帰っても私には居場所などなかった。母とスタートさせた日本での暮らしがすべてだった。

ユンジョンによると、韓国高校は日本では各種学校に登録されているため、一般受験の資格が認められていない。大検を受けて、受験の資格をえない限り、受験すること自体が無理だそうだ。「あと半年しかないのよ。すぐに日本の学校に転校するか、先生と相談しなきゃダメ」と最後までユンジョンは冷静さを忘れず、アドバイスしてくれた。

六   受難の季節―母の場合

「こちら新宿のK病院です。お母様がいま入院中です」

タクシーを拾い、すぐに病院に向かった。見た目はどこも悪そうに見えない母は点滴も打たず、ベッドに横たわっていた。

「どうしたの?」

「ガラスで少し足を切っただけ」

母の足には包帯が巻かれていた。

「そんなに深い傷じゃないわ。五、六センチくらいかな。ちょっと切れただけよ。明日、退院だし」

「だから気を付けなくちゃ」

「お母さんのせいじゃないのよ。だって、あいつが……」

「あいつって誰?」

「いるのよ。お母さんのことを韓国人だからっていじめていた客がね」

「その人が犯人?」

「いやいや、そいつは、タバコを投げつけただけなの」

母によると、三十代後半のその男はたまにしかやってこない客だったそうだ。たまにやってきては「朝鮮なんてちっぽけな国」「朝鮮なんて腐っちまえ」など暴言を吐いた。今回はたまたま客がいない時間に入ってきては、火の付いたタバコを母のいるカウンターの中に投げつけて、「朝鮮人は帰れ」とののしり、逃げていったと言う。

「で、足は?」

「火事にならないように、慌ててタバコを拾おうとして、ビール瓶にぶつかって……。まあ、小心者だね、あいつは」と母は精いっぱいの笑顔を見せた。ただ缶ジュースを握る手が少しばかり震えていた。

七   それでも希望を求めて

「ええ、韓国学校出身ですが、受験は受けられますか」

「韓国学校は各種学校に登録されているため、受験の資格がありません。大検を受けてくたさい。それに合格したら、受験できます」

どこも同じ答えが返ってきた。ユンジョンの言った通りだった。関東大学リスト1996年最新版。そこに書かれたほぼすべての大学に次々と電話をかけた。どこも韓国学校出身は入試の願書すら受け付けないと答えた。

このまさかの事態に驚いていたのは「パウ・ブラジル」の客も同じだった。「何で? 知らなかったよ。日本ってまだそんなレベルだったの?」

「韓国学校が受験できる資格を持たないなんて、何で? おれは信じられないよ」

受験の願書すら出せないかもしれない。頭が混乱した。しかし、だからこそ、何か方法を見つけなくちゃ。方法といっても電話をかける以外できることはなかった。95年当時はインターネットなどない時代だった。私は三日間、電話をかけ続けた。

「ええ、大丈夫ですよ」

どうも信じがたい答えが九十六番目の電話の相手から聞こえてきた。

「本当ですか、本当に?」

「ええ、アドミッション・オフィスでぜひ受けてみてください」

四十代の男性の声は耳から頭へ入り、胸の鼓動へと変わっていった。

「本当なんですね、本当にどうもありがとうございます。受験します。よろしくお願いします」

日本の名門私立大学が新しく導入した自己推薦という方法で受験が可能だと言ってくれた。これは担任すら知らない情報だった。何日も電話を続けてよかった。がんばった者は救われるんだ。やってみるものだわ。あきらめなくてよかった。心の奥では言葉にならない言葉が積もっていった。

スタートラインに立つだけで、外国人には奇跡が求められることをその時、初めて知った。

「やったじゃない」まだ受験に合格したわけでもないのにお店の客はみんな喜んでくれた。一日も欠かすことなく「パウ・ブラジル」に通った。もちろん、お酒を飲むためではない。受験対策をしてもらうためだった。友達が塾へ家庭教師のもとへ通う間、私にはすっかり「パウ・ブラジル」が第二の学校となっていた。それも日本語や勉強だけではなく、人生を教えてくれる現場だった。「パウ・ブラジル」での個人レッスンが終わると、家に帰り、復習を忘れなかった。

八   奇跡

あっという間に冬がやってきた。年は95年から96年へと変わろうとしていた。東京にもすっかり慣れ、朝、家を出るたび、「さむい」と自然と日本語が出てくるようにまで成長していた。「学校終わったら、すぐにお店においで」母はベッドの上から飲みすぎた顔で声をガラガラにしてそう言った。「はいよ」と玄関のドアを開け、真っ青な冬の空を見上げた。昨日と同じく、すべて、そこにあった。真っ青な空も冷たい空気も母も私も新宿も歌舞伎町もゴールデン街も。

授業が終わりお店を訪れると、中からフランク・シナトラの「ブラジル」が流れていた。正確に十三本の風船がもっと飛びたいと言いたいのか、天井に頭をぶつけることをやめなかった。いくつもの白いサンタが目立つクリスマス・ツリーが赤い光をピカピカさせた。窓にもサンタの顔が飾られていた。まだ午後四時だというのに、土曜日だからか、二十人ほどの客はすでに少し飲んでいるようだった。

私の「ただいま」でいっせいに「よ、おかえり」と声をそろえる。「メリー・クリスマス」と相変わらずセーラー服の私が言った。「そうだね、もう今年も終わりだね」と名残惜しげに誰かがつぶやいた。

テーブルの上には新しく作った真っ赤キムチやアサリ入りのチヂミ、胡麻油が香ばしいカルビなど母の手料理が並んでいる。どれも母の味がしてホッとする。チヂミをパクっとほおばった瞬間、客の一人が両手に大きなケーキを持って、お店に入ってきた。そして、私の前にケーキをおいて「おめでとう!」と大きな声を発した。またいっせいに「おめでとう」と声をそろえた。ほんの少し涙が出そうだった。「よかったね」「そうなると思ったよ」「だっておれが教えたんだぜ」「あんたじゃなくて、ウンジちゃんががんばったの」「おかげさまで、本当にありがとうございました」と私が答えた。

受験はさほど難しくなかった。お店の客に教えてもらった通り、小論文を書き、お店の客に教えてもらった通り、面接を受けた。面接の感触はよく、たどたどしいながら、一生懸命日本語を話す私に面接官は軽く微笑んでくれた。きっと大丈夫だとお店の客が言ってくれたように、きっと大丈夫だと自分に何度も言い聞かせた。

「今日は合格祝いだ」と誰かワインをついでくれた。母も特にとがめることはなかった。その晩、はじめてお酒を口にした。そして、ほんの少し、大人になった。

九   ブラジルのなぞ

朝日がまぶしかった。はじめてのお酒に少しだけ頭が痛かった。

「ブラジルって知ってる?」

「あの国ですよね、南米の」

「確かにね。昔は日本から移住したりしてた。新天地を求めてね」

「へえ、そうなんですね。韓国からの移住者もいたんですよ。コーヒー農場で働くために渡って、すごく苦労したらしいと聞いています」

「同じだね。みんな何かを求めて海を渡る」

「ええ、私と母のように」

「そう、ブラジルってね、新天地ってことなんだよ。知ってた?」

「新天地? 理想の国ってことですか」

「そうだね。昔々の人たち、ヨーロッパの人たちは、西の向こうに天国のような国があると信じてたんだ。そこをブラジルと呼んでいたんだよ。いまはあの国がブラジルになったけれど、もっともっと昔はそれこそ「理想郷」を指す言葉だった」

「じゃ、この『パウ・ブラジル』は?」

「ブラジル産の木で、赤い色が染色剤として使われてる。昔、ブラジルを発見したヨーロッパ人が赤い色に染めてくれるありがたい木を、理想郷ブラジルだと、そんな名前をつけたんだ」

「へえ」

ほろ酔い気分で客の誰かとこんな話をしていたのを思い出す。

やっとブラジルのなぞが解けた。ブラジルとは理想郷を指す言葉だった。そういえば映画「未来世紀ブラジル」にはブラジルの話はいっさい出てこない。どこもブラジルらしくないのに「ブラジル」というタイトルをつけるのは何ともおかしなことだと思った。ブラジルが理想郷なら、映画「未来世紀ブラジル」のタイトルも納得できる話だ。理想の国。今も昔も人々は理想の国を求めて、海を渡る。そう、母と私のように。

歌舞伎町一丁目ゴールデン街。母と私はここで何を手に入れたんだろう。これから何を夢見て生きていくのだろう。来日当初は、生きる、それだけがすべてだった。生き抜くために、母は、朝鮮人とののしられることがあっても一日も店を休むことはなかった。夜八時から朝四時まで。お酒など飲んだこともないのに、お酒を飲み、仕事を続けていた。最初の頃は毎晩吐いていた母もいまではかなり飲めるようになった。日本語などひらがなすら書けずにいた私はいつの間にか日本の大学に合格するまでとなった。あきらめることはない。やれることをやる。そんなシンプルな答えをゴールデン街は私に与えてくれた。日本人も韓国人もない。そんな当たり前のことをゴールデン街の人々は教えてくれた。

母と娘のブラジルはいつの間にか、現実の島になった。ゴールデン街。華やかな名前に似合わない古い街並み。ここでこれから見つけるものがゴールドなのかそれとも単なる石なのか。きっとそれはどうでもいいことだ。結局は石もゴールドも役に立つ場所に使えるかどうか、それが問題だと母は言ってくれる思うから。

ブラジルの由来については、今福龍太「第十一章ブラジル島、漂流」『群島―世界論』岩波書店、2008を参考にしました


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