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奨励賞

神社の夜

具   ハンナリ

女性   韓国生まれ
現在:  横浜国立大

神社の夜

今も私は時々思い出す。あの夜、神社の桜木の下を。その思い出は、目を閉じると心のどこかから鮮明に浮かんで来る。それはまるで、映画の場面のよう、私をあの夜へもう一度連れて行ってくれるのだ。カーノンのメロディを無表情な顔で聞いている彼女の顔がいて、隣で何をすればいいか分からぬままただ星があふれる夏の夜空を見ていた私がいた。あの夜、私の中に何が起こったのか、説明はできない。ただあの夜がなかったら今の私はなかったはずだと、それだけはいえる。あの神社の夜は。

2年まえ、私は4年間付き合っていた恋人と別れた。大学の新入生の時からの付き合いだった。A君は高校の後輩だった。彼は私から弟扱いされるのが嫌だったらしく、いつもつま先で立ち背伸びでもしているかのようだった。まだ高校2年生だったAはよく私に電話をかけたり、うちの前に待っていたりしていた。私の大学入学式があった夜、彼に告白され、付き合うことにした。なぜ弟みたいな存在だった彼と付き合おうと決心したかよく覚えていない。まだ高校生なのに、大人のまねでもしてるように大人っぽい顔で私だけを見ているAならいつまでも私の味方にいてくれるだろうと、すこし計算的な考えが有ったかも知れない。

受験生になっても彼は変わらなかった。いつも私の立場で考えてくれていたと思う。例えば、一緒に町を歩いていた時、新作の小説のポスターを見て面白そうね、というと数日後その本が郵便で届いたりするのだ。いつも私の話を耳に留めるような、いつも私を見ているような、そういう人だった。色んな映画を一緒に見て、同じ音楽を聞いて、同じ小説をよんだ。彼が大学生になっても、卒業しても、二人は変わらない、もう別れなんかあるはずがない、そう信じていた。

やがて彼は私と違う大学に入学したが、何の問題にもならないと思っていた。でも、実はそうではなかったのだ。彼の大学には、私と彼が卒業した高校の出身も大勢いて、その中では高校時代に彼と同じ部活をしていた女の子もいたのだ。それを私は真剣に考えたことがなかった。彼が見ているのは私だけ、告白するときの赤い顔は私だけのものだと過信していたのだ。

そして、内定を一社ももらえないまま私は大学を卒業した半年後、彼から電話が来た。大学1年生の夏入隊した彼が、2年後兵役義務を果たした時だった。

「俺、今日から、Bちゃんと付き合うことにした」

彼の話が何の意味なのか理解できなかった。Bは高校の後輩で、彼と同じ大学だった。年よりも若く見え、22歳の今も高校生に間違われたりする女の子で、高校時代から男の先輩達は皆あの子を妹みたいに可愛がっていたと覚えてる。私は最初からなぜかあの子が苦手だった。女らしいしぐさもかわいらしい服も、私とは正反対のタイプだったからかも知れない。

「何、それ」

最初はそんなバカバカしい言葉しか出なかった。今まで彼の口からBの話を聞いたことすらなかったから、あまりにも突然すぎて、どうすればいいか、わからなくて。

「軍隊にいた時Bちゃん、時々会いに来てくれてたんだ。だけど俺は待ってる人がいるから、といってた。それでもBちゃん、ずっと俺を待っていたって泣いてた。俺が好きで仕方がないって、だから、別れなんかしなくてもいいから、一緒にいて欲しいって」

「私だって、行ったんじゃない。何回も行ったのに。私も!」

「でも、Bちゃんには俺が必要なんだ。俺のことが泣くほど好きなんだ。だから、ごめん」

それが最後だった。多分私は、その後ずっと泣きながら、彼の言い訳を聞いていたと思う。多分というのは、その時のことがどうしてもはっきり思い出せないからだ。自分のことであっても記憶のそこに深く閉じこまれ、どうしても思い出せないことってあるのだな、と初めて知った。

彼と別れた後、どうにもならない日々が続いた。就職の準備のために、と言いながら毎日町をぶらついた。どこに行っても、町は、どこへ行っても彼との思い出の場所でしかなかった。一緒に食べた、海鮮鍋が美味しい店、コーヒーの上にクリームを乗せてくれる喫茶店、一緒に仰いた空。耳鳴りみたいに突然、彼の呼ぶ声が聞こえてきて足を止まったりしたことも何回もあった。映画を見に行くと、つまらない映画を見てるのに涙が止まらなかった。体も心も重く、もう二度ともとの私には戻れないとさえ思われた。きっと、一緒にいた時間が長すぎだったんだ。彼がそばにいないのは彼が軍隊にいったときと同じだったけど、彼が戻らないと思うだけで回りは全然別の景色に見えてしまう。毎日泣きながら彼を憎んだり、彼と彼女が別れるようにと呪っていた。二人を憎み続けるにつれ、私の心もまた、荒れ果て続けていた。

それで、私はまた大学生になった。もう一度大学に行きたいと言った時、両親は自分が驚くほどすんなりと納得した。急に、聞いたこともない日本文学を専攻したいと言っても、ああ、そうか、とうなずいただけだった。 就職に失敗したからだったとは思えない。一緒に暮らしていた両親は、自分の娘の様子が急に変わったことを何となく感じとっていたかも知れない。今思えば、あの時の両親はいつも私に気を使っていたような気がする。

ずっと日本の映画や小説が好きだった。好きだと言っても小説は韓国語で翻訳されたものを読んだだけで、映画ももちろん字幕に頼りっぱなしだったけど。入学前に日本語教室で2ヶ月間基本的なレベルの勉強はしたが、さすがにそれだけでは授業に付いていくに精一杯で、最初の学期はいつもへとへとになっていた。でも、それがあの時の私にはちょうど良かったとおもう。ほかの事は考えずに勉強のことを考えるだけで一日が過ぎていたのだ。

それで3年生になった時、日本の交換留学生を募集する告知をみた。あの頃は大分日本語にも慣れていて、同級生とのなかもいいほうだった。4年の差は何とか克服できるものだったらしい。姉ちゃんと呼ばれながらも親しんでいる同級生と一緒にご飯を食べたり遊びに行ったりして普通の大学生活をすごしていた。なのに、あのとき、あの告知をみた途端、心のなかが揺ら揺らと、なんと表現すればいいかわからない変な気持ちになってしまった。このままでいいのか、このままいつか卒業してどこかに就職したり、誰かと結婚したりできるのか。その時も私はまだ時々Aの事を考えていたのだ。彼と一緒に行った町には避けていた。高校の知り合いにすら会っていなかった。彼を思い出させる全てから逃げても、心のなかはまだ彼への憎しみにとらえられていたのだ。男の人がちょっとでも私に近づこうとすると、すぐびっくりして距離をとったり、逃げたりしていた。

そして、大学に入ったあの時と同じ気持ちで私は逃げるように日本に渡った。

大学の寮は学校からずいぶん離れていた。一人の部屋に小さな台所やユニットバスが付いている。ベッドと机、おしいれ、本棚、タンス。一人暮らしにしては悪くない施設。家賃は月に1万5千。荷物の片付けや掃除には丸一日かかってしまった。持ってきた本を全部差し込んだら本棚には半分のスペースしか残らなかった。押入れは服を全部入れたらギリギリ。100円ショップで皿や茶碗、鍋などを買ってくると何とか人がすめる部屋になれた。

隣の部屋には色んな国々の人が住んでいた。最初の歓迎パーティのとき隣の部屋の人と挨拶をして、すぐ友達になった。お互い、他の国の名を呼び合うことに大変困惑していたため、あだ名をつけることにした。中国から来たレイちゃん、インドネシアのヒカリちゃん、スペインのリタ、それであの子、同じ韓国人のユナ。

ユナは、国籍は韓国だったが日本語は私達の中で一番流暢だった。自分を「片方韓国人」だと紹介したが、どう見てもなぜ片方だと言うのか分からなかった。見た目はそのまま韓国人だったし、日本語の発音とかを見ても、普通の韓国人のように、韓国語の癖が混じっている日本語を喋っていたからだった。

新学期の忙しさにあたふたしていると春はいつの間にか過ぎ去っていた。試験やレポートの日々も過ぎ、ようやく夏休みが始まった。学期中も時々あの子達と一緒にご飯を食べたりしていたが、夏休みになってからはしょっちゅうお互いの部屋で一緒に料理をすることになっていた。インドネシアの食べ物がそんなに辛いのも初めて知った。スペイン式のサラダは美味しかった。中国のレイは中華なべまで持ってきて本客的な中華料理を食べさせてくれた。私も時々簡単なチヂミなどを作った。ただ、ユナだけは、違った。あの子だけは、自分でなにか作ってくれたことが一度もない。いつもユナが持ってきたのは果物やケーキ、おやつみたいなものだったのだ。

ユナは、変った子だった。何より、私はあの子のような無表情な20代の女の子を、見たことが無い。時々一緒に話すとき誰かが面白い話をしたりしても、あの子は笑わなかった。皆爆笑してもユナの顔は何の変化も無く、聞かれた時は面白いですね、というだけだった。悲しい映画を一緒に見に行っても、劇場中皆がしくしく泣いてもユナは泣かなく、平気な顔で劇場を出た。怒ったり悔しがったりする姿すら見たことが無い。ユナは時々、寮の近くでたまに見かける三毛の野良猫に餌をやっていた。ユナはその野良猫をミッチと呼んでいた。でも、そのときさえユナは無表情で、私はそのたびに妙な感をおぼえていた。

偶然にも私と同じ授業が多くて、私は寮の誰よりもユナを見る機会が多かった。ユナは普通に座っていたり発表するときは外国人だとは見えないくらい、日本人の感じがした。できない発音を上手にごまかしていただけだったかもしれない。だが、そんなに日本語が上手だったのに、日本人との授業も多かったのに、ユナには日本人の友達が一人もいなかった。同じ授業の人と話はするけど、友達といえるほどではなかった。

それはもちろん、ユナのあの無表情な顔のせいだった。なぜあの子は、いつも笑わず、怒らず、泣かずに、いつも同じ顔をしているのか。それを変えない限り友達なんか、できるはずがない。

ある日、商店街のスーパーでユナにあった。あまりにも暑い天気で、ユナと寮の隣のコーヒショップに入ってみた。店内は意外と静かで、コーヒーもおいしかった。アイスカフェラッテを頼んだユナは例の無表情な顔で私の前に座っていた。私はその無表情に耐え切れず、ユナに話をかけてみた。

「片方って、両親の誰か、外国人だってこと?」

もし私の話をしてもユナはいつもの顔をして私を見るだろう。それよりはユナの話を聞くほうがマシだった。それだけの考えだったのだ。

「父が、日本人ですよ」

ユナの答えから、あの日の話が始まった。あの子の変った家族史の話が。

「へえ、それで、日本語上手なんだ」

「…いいえ、別に、父と話した時はまだ子供だったし、父がなくなる前までは、日本語、片言くらいしかできなかったんです。聞くのは何となくできたけど、喋るのは全然駄目で」

「ごめん、お父さん、亡くなったんだ」

「5年前です。結構な遺産を遺してくれて…、期待もしなかったのに。おかげで今留学もできましたね」

「そう」

私は頷いた。

「…で、お父さんの国の言葉を勉強して、お父さんの国で勉強したいと思ったのね」

「いいですね、それ。でも…、そうですね。ただ直したいことがあったんです。それで…、ここに来なきゃならなかったのです。二十歳になるまでには遺産、使わせてもらえなかったから、それで… いままで我慢したわけです」

あの時、あの時あの質問をしなかったら、あの神社の夜を見ることはなかっただろう。だったら、私の人生は変らぬままだったはずだ。

「…期待しなかったって、何で?お父さんの遺産でしょう?」

他人の家族の話を聞いてはいけない、それを日本に来る前も十分分かっていたのに、なぜか、私の好奇心が、そううながしたのだ。

「母は、父の正式の奥さんではありません。父の通訳担当の、支社の職員だったんです。不倫ですね。元々は本社の職員だったのです。でも、不倫関係が始まって、母は韓国に帰り、そして、父が韓国に来るときだけ会える、という関係だったです」

「ごめん、へんなこと聞いちゃって」

ユナが、私を見た。いつもどおりの無表情な茶色の瞳が私を見ていた。

「いいです。別に。韓国の知り合いは皆知っている話です。あの子のお父さん、ほかに奥さんがいるんだって。あの子のお母さん、家庭がある男と不倫して子供を産んだって、それがあの子なんだって」

他人の話みたいに、ユナが言った。

「それで、マリさん、誰にも言わないでしょう。この話」

「もちろん、誰にも話さないよ。約束する」

ユナのお母さんは、元々は裕福な家の一人娘だったと言う。大事に育てられて、特別に頑張って努力しなくても誰にも怒られたりしないまま二十歳まで育てられた。高校の成績もよくなかったので、いい大学には行けないだろうと誰しもが考えていたらしい。結局志望大学全てに落ちたとき、外国で勉強したいと、両親に留学を頼んで日本に来た。日本語は一言もできなかったが、以前旅行で行った京都が楽しかったから今度も京都がいいと、とのわがままだった。毎月親からの送金に頼って、ひらがなから学び始めた。

1年後、突然に彼女の生活が一瞬に変ってしまった。父の会社が不渡を出し、借金で何もかもうしなってしまった彼女の両親はふたりで死ぬ道を選んでしまった。一人娘には何も残っていなかった。

韓国に帰るお金も無かった。行ったとしても出来る事は何も無かった。それまで自分の手で稼ぐ経験もなかった彼女は初めて自分だけの力で生き残る方法を探すしかなかった。将来のことを真剣に考え始め、彼女の性格も変ってきた。日本語学校に通いながらバイトを始めた。彼女はほっておけないような、助けてあげたい気持ちを引き起こす、小柄な美人だった。バイトを始めた一ヶ月後から、部長と付き合い始めた。彼がユナの父親だった。最初から家庭がある男だと知っていたと思います、とユナが言った。専門学校に進学した後も同じ会社でバイトをして、卒業した後は正社員になった。彼の力だった。妻にばれないためだったのか、母国から離れていた彼女のためだったか確実ではないが、ユナを妊娠してからは母親は韓国支社に移動させられ、韓国に帰ることになった。

韓国に帰っても二人の関係は終らなかった。父親が出張などで韓国に来るたび、二人は同じ家で生活した。ユナが生まれた後も毎月だったり二、三ヶ月ぶりになったりしながら、3人は少し変った家族生活を続けた。

ユナが小学生になった頃からユナは自分の家が普通ではないと理解していた。でも、父親は優しかったし、家は幸せだった。どの家だって、一つぐらいの問題はあるはずだとそう信じていた。 両親は二人ともユナに日本語を教えようとしなかった。時々二人きりで日本語だけで話すときが有って、そのためにユナには教えたくなかったそうだ。韓国語が出来ない父のため母がいつも通訳をするしかなかったが、父が自分を可愛がっているのは確かだった。それでよかった。

そこまで聞いたとき、店の人が声をかけてきた。

「お客様、申し訳ございませんが、もう閉店の時間でございまして」

ユナが彼をちらっと見て、言った。

「ええ、すぐ出ます」

そうやって、一見冷たくも聞こえるセリフの後にユナが私に言った。

「今日はありがとうございました。マリさんに話して、すっきりしました。また、お話させてくださいね」

でも私はまた話を聞く時なんか、こなくてもいいと思っていた。ドロドロな過去話を淡々と語るユナが、少し不気味だったからだ。そして私たちは完全に暗くなった町を歩いて、各自の部屋に戻った。

その後、ユナと話すことがないまま1週間がたった。口座に入っているはずの今月分の生活費が入っていなかったので、ロビーの公衆電話で国の家に電話をした。電話の向こうで父から、弟が司法試験を受けるつもりで大学を休んでソウルに行く予定だと聞いた。部屋の家賃とかもあるし、試験勉強のためお金がかなりかかると言う話だった。地方の大学を出ただけは大手企業をねらうのは難しいから、早いうちに他の道に挑戦してみたほうがいいと思ったんだ、弟は気まずそうにそう言った。元々私が元彼のことで迷ったりしなかったら、今頃はまともな仕事をしているはずだった。この年で、留学しているからと言ってお金を家からもらうなんて、恥ずかしいことだなと、私は痛感した。

「ごめん、姉さん」

弟は言った。

「いいえ、こっちこそごめんね。何の役にもたてなくて。せっかく決心したから頑張ってね」

電話を切って、大きくため息をついた。ふっと私はユナを思い出した。あの子なら、こんな悩みなんかないだろう。お父さんの遺産をもらって留学したあの子なら、生活費の悩みなんかないだろう。

そして私は寮のロビーを出て、見てしまった。道の真ん中、ユナがいた。しゃがんだ姿勢のユナは胸に何かを抱いているように見えた。思わず近づいたら、立ち上がるユナが抱いている猫が目に入った。三毛猫の野良猫で、ユナのそばにいても嫌がらなかった唯一な存在だった、ミッチだった。

「ユナ?」

私はユナを呼んだ。いつもどおりの無表情な顔が私を見た。

「ミッチが、死にました」

あまりにも平気な口調だった。もし誰かが、その猫はユナが死なせたと言ったら、私は信じるかも知れない。

「…なぜ?」

「車にひかれたんです」

ユナの手は血まみれだった。私は寮の事務室の人に話して、寮の庭の片隅に穴を掘って、ミッチを埋めた。小さな墓の前は墓より小さい石を立て、碑の代わりにした。その全てをユナと一緒にした。ユナは涙すら見せず黙ってミッチの墓を作った。

「泣かないね」ミッチの墓の前で、私が言って。

「…ええ」ユナが頷いた。

「…変だ、と思われるんですね。こんな時も、泣かないなんて」

「ええ。まあ」

私は否定しなかった。

「やはり、取り戻したいんです。急がないと」

ユナが言った。

「…何を?」

夏休みの暑い太陽の下だった。ただ立っているだけでも汗だらけになっていた。ユナが私を見た。

「お願いがあります。私と、京都に行きませんか?」

「京都?いきなりなんで…?」

「お金は私が全部出します。やらなきゃならないことがあるんです。私一人にはできません。お願いです」

バイトをしないと今月の生活費もぎりぎりだった。ただで京都にいけるなんて、うまい話じゃないか。

「ええ、いいよ。で、いつ行く?」

「明日、いいですか」と言うユナを向いて、私は頷いた。

次の日、私たちは京都行きの新幹線に乗った。初めてのグリーン車だった。スーツケースを棚に上げて席にすわったとたん、列車が出発した。

「取り戻したいって、何なの?」

「その前、…あの話、覚えていますか。私の家族の」

「覚えているよ。誰にも言わなかったけど」

「ええ、信じていました。マリさん、優しい人なので」

やさしい人だと言われたのは初めてだった。

「その後の話からしましょうか。全ての始まりは、私が中学校に入った夏でした」

全ての始まり。あのセリフの響きがなぜか寂しげに聞こえた。

「中学生になったとき、父に頼みました。父の国に行ってみたいと。父も母も、なんだか、すごく困った顔をしたんです。でも、私が何かを父に頼んだのは初めてで、結局、夏休みに、父の会社の創業記念式もあって、京都に行くことになったんです」

京都の夏で一番有名なのは祇園祭りだ。ユナと母親は、祇園祭り中の創業記念式パーティに招待された。父親と母親の関係は外部的には知られていなかったのでユナの母親はシングルマムで通じていた。母親はユナに父親をパパと呼ばないように注意させた。日本語が出来ないから別に問題はないと思っているようだった。だが、実際ユナはそのとき、日常生活の言葉は大体聞き取れるレベルだった。両親が日本語を教えたくなさそうだったので、知らない振りをしていただけだった。

パーティには父親の本当の家族も参加した。二十歳以上に見える長男と18才の長女、そして双子の次男と次女。全部で6人の、絵に描かれたような家族だった。父親の奥さんが近づいてきた。薄い緑色の着物で、白い毛の襟巻きを肩にかけた上品で美しい人だった。

「主人からお話うかがっておりました。あなたがユナちゃんですね。あら、可愛いお嬢さんだこと」

父親が来た。ユナは知らない人にはじめにあったように丁寧で挨拶をした。

「ご用意のお泊り先はもうお決めになられまして?お差支えなければわたくしの所においでになってはいかが?」

「ありがたいお言葉ですが、あいにくホテルを予約しておいていたので」

「主人が前から色々とお世話になっていたことと、色々とお聞きましたの。どうか、遠慮さらないで」

「お父さん、私たちからもお願いします。ユナちゃんも、ね。いいでしょう?」女の子も言った。

結局ユナは母親と一緒に父親の家に泊まることになった。父の本家は時代劇でも出るような立派な屋敷だった。和風に整えた緑側には鯉が泳いでいる池があった。池の上の橋を渡ると玄関の前になる、全体的に心が癒されるような風景になっていた。

ユナは畳部屋で一人で母親を待っていた。奥さんが母親に着物を着させたいと言い出して、着物部屋に連れて行ったのだ。退屈で部屋をぶらぶらしていたユナは掛け軸の下にある、一つの箱に目が止まった。全体は青い陶器で作られで、白い石の精密な装飾がついていた。ユナは気をつけながらふたを開けた。カーノンの節が流れ出した。ふたの内側が「Y」と彫刻されている。あれがまるで自分の頭文字みたいに思われ、ユナはそのままカーノンをきいていた。

「そのオルゴール、気に入ったか」

父親の声だった。いつの間にか部屋にはいて、ユナを見ていたようだった。

「ジョーア?グーゴ」(好きか?それ。)

「うん」ユナは頷いた。父は微笑んで、ユナのスーツケースの奥にオルゴールを入れた。

「誰にも、言ってはダメ。約束して」

父は人差し指を口についた。ユナはうなずいて父と指切りをした。

夕明けになった頃、母とユナは祇園祭を見に行くことになった。ユナは父にもらったオルゴールを風呂敷に包んで持ってきた。もし誰かがオルゴールを見つけるか心配だったからだ。そして、トイレに行くふりをして母から離れた。祭り客で賑やかな町をすぎ、最初に目に入った神社に走り込んだ。人影も見えずに静かな神社だった。ユナは丈夫そうな枝を拾い、神社の裏庭のある桜木の下を掘り始めた。そこに風呂敷に包んだオルゴールを埋め、神社の井戸で手を洗った。母の所にもどったら父親が一緒にいた。ユナは何もなかったように父に挨拶をした。

父はまた会社に戻って、ユナと母、二人だけ父の屋敷に帰ったら、奥さんはまるで別人みたいな様子だった。怒りをぐっと抑えている顔で二人を見て、奥さんが言った。

「オルゴールを、見ませんでしたこと?」ユナは日本語を知らない振りをした。

「おっしゃる意味がよく…」驚いた母が答えた。

「主人からの贈り物でございます。私のために特別に注文して、中には私の頭文字を入れた、世の中にたった一つのオルゴールなのよ。あの部屋に置いていたはず」

「知りません、本当に…」

奥さんは冷たい目でユナと母を見て、中に入って行った。

あの夜、母はずっと父と話をしていた。また一人で部屋にいたところ、突然部屋のドアが開き、3人の人影が現れた。ユナは誰かを呼ぼうとしたが、3人はユナを引っ張り出し、そのまま緑側の池へと投げ込んだ。

「死ね、この泥棒、死んじまえ!」

誰かが言った。女の声だった。姉妹の中の誰なのか、ユナは分からなかった。池の水が口の中に流れ込み段々と意識が消えていく途中でユナは母の叫び声を聞いた。答えもできず、そのまま池のそこにおぼれていくユナの手を誰かがつかんだ。ユナは意識をなくした。

目が覚めたときはすでに次の日だった。朝の太陽が部屋の中に暖かい光を満たしていた。布団の感触が柔らかくて夜のこと夢のようだった。だが、すぐ隣の部屋から話し声が聞こえてきた。

「申し訳ございませんでした。ですが、しょせん子供たちが深く考えもせず勢いでしでかしたまでのこと。ここは一つ、穏便に解決したほうがお互いに得策かと」

奥さんの声だった。女の子が二人、男の子は一人。抜けたのは長男だったらしい。だが、それはどうでもいいことだった。

「ええ、処置いたしました。幸いに命に別状ではないとのことですし、私もこれ以上ことを大きくするつもりではありません。ただ一つだけは、私たち、オルゴールのことは本当に、何のかかわりもございません。それだけはどうか、信じてください」

怒っていたのは奥さんで、母は自分が罪を犯したように戦々恐々していた。

「今日、国へお帰りになられるんですってね」

それだけ言って、奥さんはしばらく沈黙した。何分くらい過ぎたのか。ユナがそろそろ起きようか思った瞬間、奥さんが言った。

「私は、あのオルゴールを奪った人は、絶対許せません」

冷たい声だった。ユナは思わずぞっとした。

「今まで、何度もつらい時がおりましたが、私はあのオルゴールの音を聞くことで癒されてきたんです。何があっても主人を信じる、あの心を信じる、そういった力をあのオルゴールが与えられてくれたのです。そんな大事なオルゴールを奪った人は罪に相応する罰を、必ず受けるはず」

そして、奥さんは宣言した。

「そのような人は、感情を感じる資格などございません。喜びや悲しみなどを一切感じとれず、人であっても人とはいえない人生を歩むがよろしい。決して誰にも愛されることしらない。これが、私からの呪」

「…誰か知れませんが、私の娘ではありません」

「それは結構、何の問題もございませんものね」

その言葉を最後に、ユナはまた高い熱を出し、意識を無くした。

「そして、私は韓国に帰ったとたん、表情を失ったのです」ユナが言った。

「お父さんは、何も言わなかった?自分があげたとか」

「ええ。ただ父も、どうすればいいのか分からなかったでしょう。奥さんがあのオルゴールをどんなに大切にしていたか、父は知らなかったんです。だからつい私にあげてしまい、その後のことなど考えていなかったのでしょう。元々気が弱い人でしたから。そして、韓国に帰った後すぐ母は会社を辞めて、父とも別れたんです。それ以来私は、二度と父にあうことができませんでした」

娘を守るため、母はそう決心したかもしれない。ただ夫への感情が冷めただけかも。

「少し、気になっていたんです。父と母が別れたのも、もしかしたらあの呪のせいではないかと。オルゴールを奥さんから奪った父も、だれにも愛されなくなって、それで母とも別れたんじゃないか。時々そう考えたんです。一度くらいは会いに行ってもよかったかもしれません。葬式にも結局行かなかったけど」

「お葬式くらい、行ってもよかったんじゃない?そんなに可愛がって下さっていたんでしょう。遺産を遺してくれたってことは、お父さん、ユナのことずっと、娘だと思っててくださってたんじゃない?」

「…見せたくなかったです。奥さんに私の顔をみせたら…。怖かったです。無表情な私を見ると、ああ、やはりあなたが犯人だったのねと、そう思うでしょうから」

新幹線が京都駅に到着した。京都駅がとても現代的な建物だったので、私は少し驚いた。京都は外国人で溢れていた。東京でもこのような外国人の人波を見た覚えがない。大学の留学生はほぼ半数以上中国人や韓国人だか、この町には西洋人、南米やヨーロッパ、米国人が、溢れていた。日本中一番日本的だと言われるこの街を外国人たちが歩いているのは、伝統的な和の建物と現代的な京都駅が共にある風景と似ていたと私は思った。

ホテルでシャーワをしてすぐベットでぐっすり眠ってしまったユナは、夕明けの頃になってから起きた。ホテルを出て灯火が明るい賑やかな町を過ぎ、祭り中の祇園の町を二人で歩いていた。夏の京都、湿っている空気のなか団子を焼く香りや緑茶の香りの波がゆらゆらしていた。

ユナは町の隅、ある階段の前で止まった。古い鳥居が立っている、神社の前だった。ユナは何も言わず階段を上った。20段くらい上ったら、人影も見えない小さな神社が目に入った。祭りの賑やかさとは関係ないような、涼しげな場所だった。ユナは裏庭の桜木の下にたった。

「少し変ったけど、ここです」

「…オルゴールの…あの神社なの?」

ユナは体をしゃがんで、木の下を掘り始めた。

「どうするつもりなの?オルゴール、掘り出して」

「返します。奥さんに、元々あるべき場所に」

誰か来ないか周りを見回っていた私は、ユナと一緒に土を掘り始めった。ユナの感情を取り戻すため、それだけではなかった。私はこの何年間の私を、取り戻したかったのだ。ずっと逃げっぱなしで、ずっと元彼のことに取らわれている私も、変えたかった。一度の間違いで失われたものを取り戻すことができるなら、ユナの感情を取り戻すのができるなら、私の人生も何かの変化が訪れるかもしれない、そう思っていたのだ。

そして私たちが汗だらけになったころ、土だらけの風呂敷のつつみがでた。土を振り払って風呂敷の中を出したら、青い箱があった。ユナがふたを開けた。カーノンの節が流れ始めた。そんなに時間が立ったのに、オルゴールは美しい音もその姿も変らぬまま、ずっとここにあったのだ。私は空を見上げた。落ちそうな数多くの星が夜空にあった。ずっと、何年間、この星たちが埋められたオルゴールを見守っていたような、そんな気がした。涙で視野がかすんできた。京都に来てよかった、このオルゴールをユナがまた見つけてよかったと、そう思った。

次の日、私はユナがインターネットで調べた地図を手に持って、ある屋敷に行った。4階以上の建物はほとんど見えない住宅街だった。例の屋敷はすごく目立っていた。あまりにも大きな屋敷だった。近所の建物に比べてみても立派で、もっとも珍しかったのは、その屋敷の雰囲気だった。あそこだけが重い空を背負っているような、奇妙な空気がその屋敷にあった。扉の前でベルを鳴かせた。屋敷の人の答えが聞こえ、ベルの向こうの人に私は言った。

「OOさんの遺品を持ってきましたが、OO芳江さん、いらっしゃいますか」

すぐ扉が開けて、中に案内された。ユナに聞いた、橋がある池を渡って、茶室でお茶をもらって座っていたら、ある奥さんが部屋に入ってきた。緑茶色の着物姿だった。彼女を見た瞬間、私は息が止まるほど驚いた。奥さんはユナと同じく、無表情だったのだ。そのとき、私はいつか読んだ本を思い出した。誰かを呪うということは、自分をも呪うこと。呪はいつも両方に与えられるものだ、と。人を呪わば穴二つ。代価のない願いなんて、この世にはないものだ、と。

「OO芳江さんですね。これを、芳江さんにお渡するようにと頼まれました」

私はオルゴールを袋から出して、彼女に渡した。芳江さんの手がぶるぶる震えていた。彼女はオルゴールを受け取り、ふたをあけた。カーノンのメロディが流れ出した。

「これはどちらさまから?」

「それはいえません。約束ですので」

「…もしこれ、韓国からもってきたのです?」

「いいえ、ずっと、ごこ、京都にありました。私がこれを渡されたのは昨日です。これは、一度も日本を離れたことがないと聞きました」

芳江さんの肩が震えていた。そして、彼女は泣き出した。人形みたいな顔に感情が戻り、表情が生じた。

「遅くなって、ごめんなさい、という伝言です」

ユナはそんなこと言ってないけど、私はそういった。芳江さんだけへの言葉ではない。私はずっと私を取り込んでいた、元彼への言葉でもあった。裏切られたとしても、ただそれだけではなかったのだ。彼と一緒で幸せな記憶がいっぱいあった。それを全部憎しみで暗く染めるのはバカバカしい。ずっと前、私は自分にこう言うべきだった。幸せになるために呪いは、憎しみはいらないから。

私が挨拶をして席を立ち、茶室を出た。一人が私をそばに来て扉まで案内してくれた。25才くらいの背が高い青年だった。

「ありがとうございます。それで…、すまなかった、と、伝えてくださいませんか」

「分かりました」私は微笑んだ。彼も、少し微笑みを見せた。

私が彼の言葉をユナに伝えたら、ユナは少しうなずいた。それが最後だった。私たちが京都から東京に帰ってすぐ、ユナは韓国に帰った。突然ユナの部屋は空き部屋になったのを見て、私はやっとユナの帰国を知った。大学もやめた永久帰国だった。

私は日本での一年を終えて帰国した。弟は一次試験に合格して二次試験を準備していた。私は入学した三年半に卒業して、小さな出版社の翻訳の仕事を始めた。

元彼が恋人と別れたことを知ったのは、あいにく会社の初出勤の日だった。私が日本から帰った頃だったと言う。不思議にも、何の感情も生まれなかった。彼に連絡して関係を回復する気はない。かといって、二人が別れてよかった、そういう気持ちでもなかった。以前そんなことがあったと、それだけのことだった。もしあの2人が結婚したら、式に出ておめでとう、と言ってもよかったのに。私はそう思ったがそれも今は本当にどうでもいい話だった。彼が他地方の会社に入社したので、その後かれとあったこともない。ただ時々、またいつか偶然会ったりして、昔話をしながら一緒に笑えたらいいのに、そう思ったりする。

そして、韓国に帰った二度目の夏、私は偶然ユナに会った。地元の海辺の砂場だった。遠くから歩いてくる三人の真ん中に、ユナが見えた。私はあの時初めてユナの笑い声を聞いた。三人が近づいてきて、あの声もだんだん高くなってきた。澄んだ鐘の音みたいなきれいな笑い声が聞こえていた。

半白髪の中年の男性、そして美人で、なんだかほっておけないような、助けてあげたい気持ちを引き起こせる、小柄の中年の女性、その二人の間にユナがいた。ユナがその女性とそっくりだったので私はすぐ彼女がユナの母親だと分かった。まるで絵に描いたような、幸せそうな家族だった。

もっと近づいて、三人が私を過ぎていくとき、ユナが筋向いの私を見て微笑んだ。何も言わずに私も微笑んで答えた。まるで別人のような、明るい表情のユナが楽しそうに、言った。

「ねえ、お父さん、どう思う?お母さん、ずるいと思わない?」

「でもユナ、俺に言ってもしょうがないよ。俺はいつもお母さんの味方なんだから」

「ええ、なにそれ、私の味方はいない?ひどいね、お父さん」

ユナの笑い声がだんだんとおく消えて行った。

私はいつか、もう一度日本に行きたいと思っている。1年をすごしたあの町にも行って見たいが、それだけではない。また新幹線に乗って、京都にいきたい。そして大きなあの屋敷に行ってみたいのだ。静かな京都の町の中、どこよりも暗くて重い空を背負っていたあの屋敷。そこから重い空がなくなり、中に幸せそうな声が溢れているのを確かめたいと思っている。あの神社の夜に私の中で起こった変化のように、私が渡したものがあの人たちをも変えたと信じているからだ。


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