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奨励作品賞

小説   メスカル

李 芝賢

イ ジヒョン   女性
韓国   1977年生まれ
現在:  名古屋大学文学研究科博士課程在学中

メスカル

神崎陽子は家に向かってふらふらと歩いていた。いつもこんなわけではない。慣れないヒールで足が痛いのだ。それでも何か必要があって履いたならこんなにバカバカしい気分にはならないだろうに。紀夫と別れてから2週間になる。何カ所も式場の下見をしてそろそろ決めようかという時期に来て、紀夫は音信不通になった。何回掛けても電話が繋がらない。メールの返事もない。しょうがなく家に訪ねたら上げてはくれたが、タバコを吸うばかりでうんともすんともいわない。

「どういうつもり?」

「…」

「なんか言ってよ」

「…俺が全部悪いんだ」

「はあ?」

「陽子には本当に申し訳ない」

「何が?」

紀夫はそれには応えず押し黙った。眉間に皺を寄せてテーブルを見下ろしている。根負けした陽子が帰るまで紀夫はただテーブルを見つめていた。陽子は帰る電車の中で泣いた。式の打ち合わせをする時にずっと上の空だった紀夫を思い出して泣いた。向かいの女子高生たちが陽子を見て一瞬おしゃべりを止めたが、すぐ何もなかったように騒ぎ出した。陽子は別に恥ずかしくもなかった。それから週末毎に紀夫に会って、泣いたり、怒ったり、罵ったりした。紀夫は一向に何も言わなかった。平日の間は週末になるのを待ちながら恐れながら過ごした。悔しくて悲しくて、絶対殴ってやろうと思ってもいざ会うと殴るところか舌すらもまともに動かなかった。そして疲れ果てた陽子の口から漏れるように「別れよう」という言葉が出て、二人は別れた。

結婚がなくなったと家族に知らせたら、紀夫のことが嫌いだった母に「よかったね」といわれた。父と姉は慰謝料でももらえと怒り狂った。友人に電話をしてグズグズと泣いたら「陽子は何も悪くないよ」と慰めてくれた。しかし何回か同じことを言ったら友人もいよいようんざりしたようだったので、電話もしづらくなった。陽子は一体何がいけなかったのかを考えた。思い当たるもの何もなかった。紀夫はすべて自分が悪いといったけど、まったくその通りだと思った。頭では。しかし心の片隅では自分に何か問題があるはずだと思った。偶々運が悪くてこうなったなら忍びない。自分に非があると思えたほうが救われる。だから陽子は少しでも自分を変えようと髪を切ったり靴を買ったり化粧を変えたりした。少しも変わった気はしなかった。今日も馴れないヒールを履いてみたところ、足を痛めただけである。家までの道は愚かさで覆われている。

死にかけた人も無視して帰りたいほど歩くのが苦痛だったが、ATMには寄ることにした。連絡を絶つ3日前、紀夫に「バイクを直したい」といわれてお金を貸した。「式終わってからにしたら?」と聞いたが、陽子のことばは拾われず宙に舞った。何回目か紀夫の家を訪ねたときに、陽子は「お金借りるために別れるの、先送りにしたの?」と聞いた。能面のようだった紀夫の顔に急に表情が戻った。紀夫は強い口調で「違う」といったが、陽子は「何が違うんだろう」と思った。結局お金は紀夫のボーナスが出たら返してもらうことにして、その話は切り上げられた。そして今日がそのボーナス日である。紀夫からは何の連絡もなかった。もし口座にもお金が入ってなかったら紀夫に電話して催促しよう。「別に声が聞きたいわけではない。お金返してほしいだけ」と陽子は自分に言い訳をした。

ATMコーナーは閑散としていた。右端の機械だけ男の人が使っている。陽子は一番左のATMに通帳を入れた。通帳が機械に吸い込まれては戻ってきた。陽子はそこに刻まれている今日付の振込みの記録を見つめた。ちょうど自分が渡した分だけの数字が並んでいる。その横の「タナハシノリオ」の文字に、清々とした紀夫の顔がオーバーラップする。

頭の中に穴が一つ開いた気がした。そこから色んなものが漏れている。思考力やら判断力やら理性やら。右側にいた男が入り口に向かうふりをして自分の背後に回ってきたことに気付かなかったのも、男に尻を触られてもしばらく動かずにいたのも、そのせいだろう。尻の丸みに手のひらをぴったりと密着させられ、その手が撫でるように左右に動いたときにようやく頭が回り始めた。触られた部分から全身に熱が広がる。「怒り」という名のその熱が全身に渡ったとき、陽子は火傷した動物のように飛び上がり、怒鳴り始めた。「何やってんだよ。てめぇ」という自分のかすれた声は他人のように聞こえた。こんなに大声を出したのは何年ぶりだろう。

男は慌てて逃げようとした。陽子はその後ろ髪を取ろうとしたが、帽子だけが手に残った。その帽子を地面に叩きつけ、ぎりぎりのところで男の髪の毛を捕まえた。固い髪の毛が手に刺さってぞっとする。陽子も女として大きい方だが、男は陽子より頭一つくらい大きかった。胴体の太さも比べ物にならない。その気になれば陽子の手などすぐ振り解いて逃げられるだろうに、男は首根っこを捕まえられた猫のようにおとなしくなっていた。しかし陽子が男の髪を鷲づかみにしたまま、片手でケータイを取り出し警察に通報しようとしたときは慌てて陽子の手を振り払い、ケータイを奪おうした。陽子の手の中にはごそっと抜けた髪の毛だけが残った。振り向いた男の顔は40代半ばくらいに見えた。ただ熊さんが大きくプリントされたトレーナーはとても年相応ではない。もしかしたらふけ顔の小学生なのだろうか。

男の大きな体が迫ってきたとき、陽子は考えるまもなく全力で男の顎に頭を激突させた。男は舌を噛んだのか苦しそうに唸り、口を押さえた。陽子は何の迷いもなくそのみぞおちに拳を入れた。男は激しく咳き込み、蹲った。陽子は自分の動きに自分でも驚き、少し興奮した。紀夫の前でもこんなに体が動いてくれていたら。紀夫を思い出すと、腹の中で熱いボールを回されているような気分になる。何かに動かされるように陽子は男の頭をぶった。石でも叩いたように拳が痛い。人間の頭がこんなに固いことを陽子は初めて知った。男は大げさな悲鳴を上げながら頭を抱えて床に転がった。そして「ぼ、ぼくは頭に障害があります」と言った。男は必死に頭を守りながら小さい子のような口調で何度も繰り返した。舌をちゃんと動かしてないようなつたない発音だった。何回か聞いてやっと意味が分かった。「殴らないでください」と泣きじゃくる声は野太く、頭をかばう腕には濃い毛が生えている。その滑稽な姿に陽子の中に満ちていた怒りが抜けていった。自分でも半分は八つ当たりだったのは分っている。陽子は苦い気分になり、男に声をかけた。

「名前、何?」

男は亀っこのように頭を隠すばかりで何も応えなかった。苛立った陽子は平手で男のこめかみを打った。腕の上からぺちんと叩いただけなのに、男は漫画のように「ひいいい」と震え上がり、しゃっくりをしながら「すぎもとです。すぎもとみのるです」といった。陽子の気持ちはますます苦くなる。しかし名前だけは何とか吐かせたが、住所と電話番号となったら頑固に口を開かない。もう平手打ちをしてもすすり泣くだけだった。顔を隠した袖が涙に濡れていた。一の字に結んだその唇が時折開き「うっ」とうなり声が漏れる。気持ちが苦くて仕方がない陽子は額に手を置き、ため息をついた。その瞬間、隙を狙っていたのか、男が驚くほどの勢いで起き上がった。そしてそのまま陽子に向かってきた。しかし「やられる」と思った陽子が「キャー」と叫んだら、方向を変え、ドアに体当たりをして必死に逃げて行った。その後姿を見送りながら、うそ泣きにだまされたようで、悔しくなった。小学生のように「キャー」と叫んだのも恥ずかしい。そそくさとATMを出ようと、機械の横に置きっぱなしだった荷物を取ろうとして陽子は男が自分に向かってきたわけではないことに気づいた。男は陽子の後ろに落ちていた帽子を拾おうとしたようだった。陽子は腹いせにその帽子を2,3回踏みつけた。そして汚いものに触るように指先だけでそれを拾い上げた。ねずみ色と白の、薄汚れた帽子だった。内側から濃厚な体臭がする。陽子はバッグの中からビニル袋を出し、帽子を入れた。誰に説明するわけでもなく「証拠になるかもしれないから」と呟いてみたが、一体何の証拠になるのかは自分でも分らなかった。

ATMに人が入ってきたので陽子は逃げるようにATMを後にした。そして何事もなかったように澄まして歩こうとした。しかし忘れていた足の痛みが蘇り、そうも行かなかった。もうなりふりかまっている気力もなかったので、靴を脱いで裸足で歩いた。二人乗りした中学生の自転車がスピードを出して陽子を通り過ぎ、あっという間に小さくなった。後ろに乗った女子の澄んだ笑い声だけが風に乗って陽子の耳に届いた。陽子が裸足で歩いていることなど気に留めるには彼らはあまりに朗らかである。陽子は自分の中学生時代など一つも思い出せなかった。朝起きて学校に行き、授業を聞いたり友達と遊んだりしたのは覚えている。ただその中で自分がどんな気持ちだったかがさっぱり思い出せない。街灯に照らされた陽子の顔はいつの間にか涙で光っていた。

明るいところでみたら足は思ったよりも悲惨なことになっていた。男ともめたときに無理に動いたのがいけなかったのだろう。お風呂に入ったらお湯が滲みて痛い。足だけ湯船の外に出したら逆に疲れてしまった。寝る前にビニル袋に入ったままの「すぎもとみのる」の帽子をベッドの下の引出にしまった。めったにあけることのない引出には正体の分からないアンテナーや電線,コードなどがごっちゃになって入っていた。それからベッドによじ登り、頭まで布団をかぶって身震いをした。足の傷から熱が出ている。顔も火照っている。しかし手先はひんやりと冷えていた。陽子は首に両手をうずめてみた。手は中々温まらず、首から体温が奪われていくばかりだった。翌朝、足には薄いカサブタが出来ていた。「すぎもとみのる」と再会したのはそのカサブタがいよいよ固くなり、落ちようとしていた頃である。

「すぎもとみのる」は例のATMの前に立っていた。連れのような女の後ろに隠れるようにして。しかし女の体は「すぎもとみのる」の半分くらいしかなかったので「すぎもとみのる」はとても彼女の後ろには隠れ切れなかった。それでも陽子は剥き出しになっている「すぎもとみのる」の顔に最初気付かず、通り過ぎた。陽子を呼び止めたのは連れの女だった。振り向いて自分に向かってくる女とその背後の「すぎもとみのる」を見た瞬間、陽子は体温が何度か下がった気がした。心臓から嫌な音が聞こえてくる。女は笑顔で頭を下げたが、陽子は何も聞かずにその場を走って去った。ガゼルのように一目散に逃げて家につき、渇いた喉を水道の水で潤し、その水が気道に流れ込んだせいで激しく咳き込んでから陽子はやっと「何で私が逃げなきゃいけないの?」と思った。逃げる必要などないのに。

しかし本当にそうだろうか。理由はどうであれ陽子は無抵抗の「すぎもとみのる」をボコボコにしている。本当に障害がある人なら、まずいことをしたのかもしれない。その夜、陽子は警察にカツ丼を出される夢をみた。そして翌日からちょっと遠い他の駅から会社に行くことにした。いつもより20分以上時間がかかったので会社に遅れた。午後からは雨が降ったので、回り道をして帰った陽子の体はずぶぬれになっていた。駅が遠くなったことで、睡眠時間が削られ、歩く距離も増えた。そんな不便に結局は馴染めなくて、程なくして陽子が元の駅に戻った。「まさかいないよね? そんないつ来るかも分らないやつ、ずっと待っているわけじゃん」と自分に言い聞かせながら。自分を騙しても何の意味もないのに、陽子はいつも自分を騙そうとする。

しかし3日が経っても5日が経っても「すぎもとみのる」は現れなかった。そして「ほら、見なさい」と軽い気持ちで駅を出た6日目、前と同じ場所に「すぎもとみのる」が例の女と並んで立っていた。さすがに今回は陽子もすぐに気がついた。二人のうち「すぎもとみのる」が先に陽子を見つけ、目を見開いた。そして女の服を引っ張り、体を屈めてその耳元で何かを囁いた。恐らく前も同じようなことをしていたのだろう。

女は陽子のほうに視線を置いて頷いた。そして仁王立ちしていた陽子と目が合うと慌てる気配もなく軽く会釈をした。陽子は引きつった顔でそれを無視した。女は「すぎもとみのる」に何かを口早に言いつけ、一人陽子に向かってきた。陽子は親を呼ばれたいじめっ子のような気分で、「卑怯だぞ、おっさん」と「すぎもとみのる」を睨んだ。「すぎもとみのる」はそ知らぬ顔をして、陽子のほうを見ようとはしない。その唇がかすかに歪んでいるのが憎たらしい。陽子は女のほうに視線を移した。「すぎもとみのる」と同じくらいの歳だろうか。ただ今日も黄色いトレーナーに、丈が短いジーンズ姿の「すぎもとみのる」に比べると、女のほうはずいぶんとこざっぱりした格好をしていた。男のようなベリーショートヘアも栄えて見えるはっきりとした目鼻立ちである。ざっくりとした青いニットと白いスカートが細い体によく似合っていた。ただ、もう秋も終わろうとしているのにその足元だけは裸足にサンダルだった。露わになっている白い足の甲にうっすらと青い血管が浮いている。目に飛び込んだ何も塗っていない爪が途轍もなく卑猥なものに見えて陽子は思わず目をそらした。

女は名乗りもせず「この前はうちのものが大変ご迷惑をおかけしたようで」と切り出した。陽子はまずその声の低さに驚いた。酒ヤケでもしたような掠れた声だった。女がそのハスキーな声で「うちのものはああなのでね、詳しいことは分りませんが、恐らく勝手にお体に触ったりしたのでしょう。本当に申し訳ありません」と早口で並び立てる。女の肩ごしに「すぎもとみのる」が不安そうに二人の様子を窺っている。陽子と目があうと、さりげなく視線を外し、「見てないよ」という顔をした。

女が別に自分を追求しに来たわけではないようだったので、陽子はいったんほっとした。しかし、ただ謝りに来たとも見えなかった。だからこれからの話を聞くのが億劫で、無理だろうとは思いながら「そのことならもういいですよ」と帰ろうとしてみた。案の定、「実はそのことで少しお話があってね」と止められた。口調は柔らかかったが、声には有無を言わさない威圧感がこもっていた。陽子は無力になり、大人しく女の後ろについて「どこか座れる店」まで行く羽目になった。

女と「すぎもとみのる」が前を歩き、陽子がその後ろに付いていく。途中で何回かこっそり逃げようかと思った。逃げて、2度とこの駅に来ないといいんじゃないだろうか、と。同じ事を案じたのか時々「すぎもとみのる」が振向いて陽子がいるのを確認する。それが疎ましくて、陽子は「気持ち悪い」と一人呟いた。独り言のつもりだったのに、自分の耳に届いた「気持ち悪い」があまりにも明瞭だったので慌てた。そのくっきりとした「気持ち悪い」は狂いなく「すぎもとみのる」の耳にも届いたようで、「すぎもとみのる」は怯えたように女のほうに体を摺り寄せ、2度と陽子のほうを振り向かなかった。女は聞いたのか聞いてないのか、ただスカートを揺らして歩くだけだった。

他人事ながら商売大丈夫かと心配になるほどガラガラに空いている喫茶店に入った。「すぎもとみのる」は陽子と向かい合うのを嫌がり、他の席に座ると大分ごねたが、女に一段とドスのきいた声で「じゃあんた先に帰って」といわれてしおらしくなった。それをいい気味に思った陽子だったが、それからも「すぎもとみのる」は中々注文を決められずに女を手こずらせた。店員がうんざりした顔で待ちわびていた。これが飲みたいとか、やっぱりやめるとかダラダラと言っていた「すぎもとみのる」は結局女に「何も飲むな」といわれて、やっとモジモジしながら「パイナップルジュース」と店員に告げた。やる気のなさそうなギャル風の店員は「かしこまりましたぁ〜」と間延びした返事をして伝票を厨房に持って行った。

そして女が今更ながら「そういえば名前も言ってませんでしたね」と、「すぎもと」と名乗った。下の名前は言わなかった。陽子は「棚橋です」といった。何となく本名を言うのは恐ろしかったが、咄嗟に思い浮かぶのが紀夫の苗字しかなかった。女は「まずこれ、大したものじゃないんですけれど、お詫びとして」とバックの中から小さな紙袋を陽子に差し出した。「お詫び」とは言っていたが、特に恐縮した様子でもない。紙袋には市内のデパートの名前が入っている。ハンカチか何かだろうか。とりあえずは断ったが、結局は女に押されて受け取った。どうもこの女が相手だとぶが悪い。

「あの、で、お話というのは…?」

「あ、そうだね。実はね、この子が棚橋さんにご迷惑をかけたときに帽子を落としたと言ってんのよ」

そこか、と陽子は伸ばしていた背筋を思わず緩めた。女のそばで「この子」こと「すぎもとみのる」が聞き耳を立てている。

「はあ」

「最初、どこで落としたのか言おうとしなくて。分かったのは落としてから一週間くらい経った頃かな。ずっと帽子無くしたと泣くばかりでさ。何も言わんかったのよ。自分でも分かってたんだろうね。いかんことしたと」

「はあ」

「それから、すぐ取りに戻ったと言ったけど、そのときにはもうなかったんだって…」

「そうですか」

「そこで、もしかしたら棚橋さんが何か知らないかなと思って…」

「それなら家にありますよ」と陽子が答えようとした瞬間、店員が注文のものを持って戻ってきたので話が中断された。体を屈めたとき広く開いた胸元から店員の下着が見える。「すぎもとみのる」が目を光らせてその胸元を覗き込むのを陽子は見逃さなかった。そして店員が自分の前にジュースを置いたとき、「すぎもとみのる」はジュースに手を伸ばすフリをしてその手に触った。下手な芝居だった。店員は素早く手を引っ込め、「すぎもとみのる」ではなく、女を睨んだ。女は前を向いたまま店員のほうを一切見ようとしなかった。しばらく女を睨んでいた店員はやがて陽子のカプチーノを乱暴に下ろし、「気持ち悪い」と吐き捨て、カウンターに戻った。女にはそれも聞こえないようだった。「すぎもとみのる」は遠ざかっていく店員の腰から下を舐めるように見ていた。陽子は少しこぼれたカプチーノをスプーンでかき混ぜ、ちょっと下を向き、ゆっくり頭を上げた。

「で、先の話ですけど、要はその帽子を私が拾ってないかということですよね?」

「すぎもとみのる」が目を輝かせて陽子のほうを向く。女が「そうです」と頷く。陽子は焦らすようにカプチーノを一口飲んだ。

「そうですね。確かに私が拾いました。何か証拠になるかもしれないと思って」

「すぎもとみのる」が興奮して体を前後に揺らした。陽子は「じゃ…」といおうとする女を遮って話を続けた。

「でもいざ家に持ち帰ったら何が怖くなって」

「え?」

「ごめんなさい。だから、もう捨ててしまい…」

「…ました」と言葉を終わらせる前に、「すぎもとみのる」が獣のような雄叫びをあげ、起き上がろうとした。女はその小さな体のどこからそんな力が出るのか「すぎもとみのる」の肩を押して席に戻した。「すぎもとみのる」は女に肩を押されたまま荒い息をしている。その目にあっという間に涙がたまった。「すぎもとみのる」は小さい子供のように(しかし野太い声で)泣き始めた。女が低い声で「うるさい」と制したが、「すぎもとみのる」は「離してぇ」とかぶりをふりながら喚いた。先ほど手を触られた店員が腕を組んで冷やかな目でこっちを見ている。

「すぎもとみのる」の泣き声はいつまでも止みそうになかったが、やがて「ばしっ」という音が店内に響き、静かになった。女が「すぎもとみのる」の頬をぶったのだった。「すぎもとみのる」は手のあとが残った頬を押さえて、唇を噛んだ。その肩が激しく上下している。女は陽子に「ちょっと失礼」と言ってケータイを取り出した。その動きに「すぎもとみのる」がびくっとして身構えをした。女は黒目だけを動かして「すぎもとみのる」を一瞥しては片方の口角を少し上げた。

「うん。そう。もう駄目。悪いけど、迎えに来て。ごめんね。はい」と短い通話を終わらせた女はすぐ「すぎもとみのる」を引っ張り店の外に出た。人の目を気にする様子は微塵もなかった。陽子はただただ、自分の言葉の思わぬ効果に圧倒されていた。しばらくして一人で戻ってきた女は「すみません。お騒がせしました」と陽子に頭を下げた。目が釣りあがっている。先までつるんとしていた顔に急に皺が深く刻まれたように見えた。陽子はくぐもった声で「いえ」というのが精一杯だった。女は手をつけなかったアイスコーヒーを一口飲み、「あの、しつこいようですが、その帽子どこに棄てたんですか?」と聞いた。

「…ゴミの日に出しました」

「いつ?」

「先週です」

「そう」

「…すみません。何か大事なものだったですか?」

女はすぐ答えず、指でテーブルを2,3回叩き、首を回した。女の目がますます釣りあがっていく。上目遣いで陽子をみるその目が猫のように輝いていた。陽子は出来る限り無垢な顔を作ってみせた。

「…いや、ただの汚い帽子ですけどね。これでよかったかもしれません。いつまでも執着していても仕方がない」

そしてしばらく二人して黙っていた。何に執着するかは終に聞けなかった。いつの間にか脇の下に汗をかいていた。どこからか悪臭がする。それが自分の汗である気がして陽子は肩をすぼめた。女がコーヒーを飲んでから、店を出た。勘定は女がした。別れる前に女は「何か少しでも思い出すことがあったら連絡ください」と連絡先を渡した。二つ折にした小さい紙を受け取りながら陽子はますます汗をかいた。捨ててしまったのに、何を思い出せるのだろう。女は「じゃ連絡待っていますから」と言い残し陽子の家とは反対方向へと歩き出した。体を翻す直前に見えた女の顔が微かに嘲笑しているように見えた。軽快にスカートを揺らして遠ざかっていくその後ろ姿をみて陽子は口の中で「違うんです」とつぶやいた。「何が違うんだろう」と自分でも思いながら。

ベッドの下から取り出した「すぎもとみのる」の帽子は相も変わらず汚かった。未だに「すぎもとみのる」の体臭が消えずに残っている。皮脂で変色した内側には小豆色のしみが広く残っていた。それがどうしても血に見えるので陽子はわざと声を出して「チョコかな」と呟いてみた。向こうの鏡に「チョコかな」という自分の顔が死人のように青いのが映る。その夜、陽子は真夜中に何度も目を覚まし、命綱でもあるかのように女のメモを握りしめた。次の日は手に力が入らなくて、何度も物を落とした。

結局、小さな段ボールに帽子を入れてコンビニに向かったのは女と別れてから半月も経ってからだった。女のメモを無くしたことに気付いたのは宅急便の伝票をもらってからだった。財布の中に入れておいたはずなのに、どこを探しても見つからない。陽子は段ボールを持ったまま間抜けな顔をして家に帰った。家中をひっくり返してもメモが出てこない。陽子は空き巣にあったような部屋の真ん中に崩れるように座り込んだ。立ち上がったら絶対めまいがするだろうな。陽子は洋服と本と袋などが散乱した中で「すぎもとみのる」の帽子が入った段ボールを枕にして寝転がった。段ボールは陽子の頭を支えられず、すぐ潰れた。陽子はしばらく仰向けになって天井を見つめていた。いつの間にか部屋の中が暗くなり、天井が見えなくなった。耳に涙が入り、気持ちが悪い。陽子は薄暗い中、手探りでケータイをとり、紀夫に電話をかけた。とりあえず紀夫を殴っておこう。あのときにちゃんと殴れなかったから、こうなったんだ。

何回呼び出しても紀夫は電話に出なかった。3回目かけたときは一応つながり、何の声も返ってこないまま電話が切れた。次にかけたら「お客様の都合によりこの電話はおつなぎすることが出来ません」というメッセージが流れ、すぐ切れた。それからは何度かけても同じだった。陽子はケータイをベッドの上に投げ込み、体の向きを変えた。下敷きになった段ボールはもう完全に平たくなっていた。陽子は今すぐ老人になりたいと思いながら眼を閉ざした。しかし内臓が焼けるように痛くて眠れなかった。


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