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奨励作品受賞

小説   赤と白

レオン ユット モイ

LEONG Yut Moy   女性   マレーシア   1975年生まれ
現在:  広島大学文学研究科博士課程2年(日本近代文学)

小説  『赤と白』

暑気に包まれ燃え上がる如く真っ赤なバラのそばに、氷一片置いたらすぐ溶けてしまうような真夏には、どうしても白を着ないと気が済まない人がいる。

寒さをちっとも恐がらず立派に佇んでいる木蓮の木が堂々と真っ白な花を咲き乱れさせる一月から、植物好きの人が大学の近くにある花屋でアルバイトを始めた。清らかな菊、脇役に欠かせないかわいい霞草、微かな中東の匂いがするトルコ桔梗、人を窒息させるほど情熱的なバラ、高貴な蘭などに囲まれ、数え切れないほど様々な性格の持ち主である花々の青春を見守り、逝かねばならなぬ花々の短すぎる青春を嘆く。なぜだか分からないが、夜になったらよく耳鳴りがし、浅い睡眠で悪い夢ばかり見る。黙蓮(モクレン)はそれがどうしても治らない病気だと信じ込んでいる。

アルバイト先の花屋では、南国からやってきた黙蓮が見たことのない花がたくさん並んでいる。なぜ竜胆はリュウタンではなくリンドウと読むのか。普通の白や紫の桔梗とは形がまったく違うトルコ桔梗は本当にトルコから来たのか……などと色々考える。花を購入しに店へ足を運ぶお客さんはもちろんのこと、インターネットで注文して支払いがクレジット・カードというケースもあるので、お客さんの顔を全く見ないでの商売も行っている。花を贈る季節になると、店が非常に忙しくなる。特に母の日、バレンタイン・ディ、卒業式などは、殺到した注文に応じるために猫の手も借りたいほど忙しい。もちろん結婚記念日、お見舞い、誕生日用などの注文も少なくない。

この花屋で働いて約半年が経った真夏のころ、黙蓮は一番奇妙な注文に出会った。それは決まって毎週水曜日、インターネットからの注文である。赤いミニバラ十一本、透明なビニールと白いリボンで梱包、日曜夜間便の配達指定、メッセージ・カードいっさい不要。いったい何のため、誰のために購入するのかは全くわからない。時々、ちょうど店に赤いミニバラを置いていなかったり、あるいは従来の業者から入手できないことがあると、注文を断るお詫びメールをお客さんに送るが、「どうか必ず注文の通りしていただきたい」、という返事が来る。そこで業者にも入手できない状態をより詳しく説明し、どうしても今回の受注を承ることができないとお知らせしたら、今度は、「二倍の料金を払っても構わない、どうか必ず注文の通りしていただきたい」、としつこく頼まれる。ご愛顧下さるお客さんのためと、仕方なくもっと遠く離れた県の業者に頼み、どうにかお客さんの要求の通りに花を届けてきた。

これだけだと、さほど奇妙な注文だとは思えないかもしれない。一番驚くのは、届け先が一般の住宅ではなく、この近くにある停留所のいすだということである。最初の注文では、依頼主の住所欄になんとうちの花屋の住所が入力されていた。いたずらかと思って、また、お届けの際の受領印が頂けないから、停留所には配達することができないとお客さんに伝えると、「代引きではなく、クレジット・カード決済なので、受領印なしで指定の場所に置いて欲しい」と要求され、宅配業者と相談の上、お客さんの要請通りにしてあげた。このお客さんについて、クレジット・カードの情報から唯一分かるのは、Sugiyama Hiroshiという氏名だけである。あまりにも不思議で、黙蓮はこのSugiyama Hiroshiという名の持ち主がずっと気になって仕方がない。指定の停留所はこの辺の近くにあるので、日曜日の夜間に花束を取りに来る誰かをこっそり遠くから覗こうと考えているが、毎週の日曜夜の九時半まで花屋のバイトが入っているので、仕事を終え自転車に乗って家へ帰る途中停留所を通ったときには、花束はもう誰かに取られていた。しかし、苦情のメールはいっさい来ないので、きっと無事にお客さんの元へ届いたはずだと思い、この不思議なお客さんの正体を追究する考えも考えのまま心の奥底にしまう。

しかし、風がまったく感じられないある夏の日曜の夜、黙蓮がバイトを終わって、いつものようにその停留所を通ると、いすの上に何かが置いてあるのに気付いた。自転車を止めてよく見てみると、薄暗い街灯の光の下には、朦朧と光る透明なビニルに包まれ、白いリボンで結ばれた赤いミニバラの花束が!今夜はまだ花を取りに来ていないらしい。よその人に取られたらまずいと思って、黙蓮は自転車を停留所のそばに置き、いすの上に腰を下ろして花束を見守りながら、Sugiyama Hiroshiという人物の顔を想像し、物思いにふける。それにしても、なぜ花びらの大きな普通のバラでなく、ミニバラなのか。なぜほかの色でなく赤なのか。Sugiyama Hiroshiは一体どんな人で、何のため、誰のために花束を購入するのか、と果てのない自らの想像の域にゆっくりと堕ちて、水がきらきら輝いている真っ青な想像のプールのただ中に身を投げるように、深く深く沈んでいく。

蝉時雨の合唱団に伴われ、きらきらしすぎた想像のプールに溺れる寸前の黙蓮は、想像と現実との境目にある無名の縁をしっかり掴んでプールからふと頭を出して現実に戻ると、あっという間に一時間半が経っていたことに驚いた。黙蓮以外の人間の気配はいうまでもなく、野良犬の影さえ見えぬ。もし私がここにいたらSugiyama Hiroshiが出てこないかもしれないとふと思い付いて、黙蓮はいきなり立ち上がった。そうだ。きっとそうよ。日曜の夜にバスの最終便が九時の前にもう終わって、こんな時間ここでバスを待つ人はまずない。Sugiyama Hiroshiはここに誰もいないときに花束を取りに来るはず。私がずっとここにいると、いつもこっそり花束を取りに来るSugiyama Hiroshiは現われそうもない。もう家へ帰らないと明日寝坊して授業に遅れるかもしれぬと思いつつ、無事に花束を取りに来て欲しいと願って、花を置いたまま停留場を後にする。部屋に帰ってシャワーを浴びた後、明日の授業の予習をしていると、あまりの疲れでぐったり。このあたりはかなり物静かで、勉強には最適である。時たま、救急車・パトカーのサイレンとか、選挙の宣伝カーとか、暴走族の車とかが聞こえるたびに、神経が高まらざるを得ない。黙蓮が夢と現実の間を彷徨うとき、突然救急車のサイレンが聞こえるような気がした。今夜は近くに来るかなと思ったが、疲れ切った体がもう予習についていけないので、耳鳴りを感じつつとうとう机の上に寝付いた。

翌朝、学校へ行く途中同じ停留所を通ると、黙蓮は、赤いミニバラの花束が前夜のまま同じ場所に置いてあるのに気付いた。すっかり元気を失い、枯れきったミニバラを見つめる。まだ取りに来ていないのか。何が起こったのか。Sugiyama Hiroshiは無事なのか。色々な疑問が頭の中をぐるぐると回るが、もう授業の時間なので、停留所を去らざるをえない。夕方、授業が終わった後、黙蓮は寸刻も惜しんで直ちに停留所に向かって飛び出した。血を失ったような赤いバラが目に入ったとたん、やっぱり来ていないのか、と嘆いて呟いた。店に相談して、枯れた花束と交換に、新鮮な赤いミニバラを同じ場所に置いた。今度は、水をたっぷり入れて、枯れるのを一刻も遅くのばしたい。同時に、Sugiyama Hiroshiにお知らせのメールを送ったが、返事がない。

結局二日も経ったが、新鮮な花束が捨て子のように停留所のいすに残されて、夏の高温ではやくも元気を失った。枯れたら一週間続けて新鮮な花と交換して停留所に届けるように店長に頼まれ、花束を届けに行き、無事に来てくださいという願いを、花束と一緒に停留所のいすに置いておく。もうそろそろ諦めようと思う六日目に、バイトを終えて停留所を通ると、交換され続けてきた新鮮な花束がいすにない!

Sugiyama Hiroshiがやっと取りに来たのか!と黙蓮は心の中で歓声を上げた。翌日、一週間姿を消していたSugiyama Hiroshiから感謝のメールが届いた。花束を取りに来られなかった原因は、高熱で入院したためのようだった。いまはもう回復してよかったと思って、黙蓮はようやく安心した。結局、Sugiyama Hiroshiという人は、いまだに正体不明。しかし、これからSugiyama Hiroshiとのかかわりや、いくら予想しようとしても、果てのない想像の域を遥かに超える展開が、黙蓮をじっと待っている。

南国にはない綺麗な秋がやってくる。炎上するような真っ赤な楓やもみじが町を彩る。過ごしやすい秋だが、しめやかな雰囲気がなんとなく心のどこかの隅に潜んでいる哀愁の種に養分を与え、生きる条件を整える種が、だんだん芽生えていく。季節は絶えず移り変わるが、人間は生きている間に何回の春夏秋冬を味わえるだろう。今年の秋は去年または来年の秋と同じなのか、と黙蓮は落ち葉を踏みながら思った。光陰矢の如しとよく言われるが、弓を射たら矢が的に当たるか当たらないか、いずれにしても矢は必ずどこかにつくはずだが、時間はいったいどこへ消えるのだろう。どこから、そしてどこへゆくかが分からぬ時間の影も見えないのに、現在が過去になり、未来も過去になることは誰にも止められない。結局今年の秋もどこへ逝くのか謎のままで、物寂しい秋を見送ったら、雪が積もった蕭条たる木立が、自分なりの言葉ですれ違う行人に寒さや孤独を告げる。

厳しい寒さが緩んできたら、一刻も静止せずに渦巻き続ける歳月の流れの中へ冬を見送って世に帰ってきた初春の足音に、大地はついに冬眠中の夢から覚めた。大地が自分のようによく悪夢を見たのか。あるいは目覚めたがらないほど良い夢見をしたのか。一月からずっとこのように考え続けてきた黙蓮が毎日通っている住宅地区のある屋敷の庭に、気になる一株の大きな木が立っている。二月頃になると上品な白い花が咲きほこり、無口のままでも人に目線を逸らさせないような力を持っている。見知らぬ植物の名を花屋の店長に聞いたら、「白羽衣(しろはごろも)」(注一)という種類の椿だと分かった。南国には椿がない。ひとひらひとひらの適当な弧線をしている白い花びらが、なぜかいつも黙蓮の目を奪う。西洋的な情熱を放つバラと違って、椿は落ち着いて含蓄の神髄を語っているような感じがする。何という綺麗で上品な花だろうと植物好きな黙蓮はいつも思い、毎日通るたびに、なんとなく椿の花に自分の魂が吸い込まれるような気がする。だいたい二月の頃になると、ふるさとのお正月がやってくる。そろそろお母さんに電話しないと、黙蓮は長い電話番号を回す。

(おかあさん)!   就快過年喎(もうすぐお正月でしょう)準備好未啊(もう準備ができたの)?   大掃除左未啊(大掃除したの)?   買斉野未啊(買い物全部そろったの)?(注2)

仲未啊(まだだよ)最近唔係幾舒服(最近気分がすっきりしない)セ野都唔想做啊(何もやりたくないのさ)。」母のしょんぼりしている声を受話器が伝えてきたとたん、誰にも聞こえない位の声で黙蓮はひそかに嘆いた。

(そうか)甘你好好休息啦(じゃあゆっくり休んでね)。」

黙蓮が物心ついて以来、お正月が近づくと、母親が必ず落ち込む日が増えた。母親は昔からお正月が大嫌いだった。そのわけは、普段より色々な準備で忙しくなり、家計の支出が増えるのみならず、喜びを意味するはずのお正月は、母親にとっては悲しみの色が濃く、心に傷跡を深く深く刻んだ日なのであった。思い出したくない埃まみれの記憶が長年心の中に忍んで、普段はまだ平気だが、お正月が近づくと、一縷の毒煙のように母の心のひびを通してゆっくり舞い上がり、心の煙突からたなびいていた。この煙にむせられるせいか母親の目はよく涙で曇り、体は毒害されたようにだんだん元気を失った。母親が長年丁寧に畳んで、記憶の引き出しへ入れ込み、パンドラの箱のようにいったん開けられたら収拾がつかぬ嫌な思い出が、お正月に乗じてとうとう顔を出した。

*      *      *

わずかな人間の温度さえ感じさせず、ただ感傷の空気が漂っている冷たい病室の一隅に、十歳の少女は両手で身を抱えながら不安そうに座っていて、心まで凍傷にかかっているかのようだった。一人の三十代後半の女性が、目を閉じたまま病床に横たわり、やせこけた顔の色の悪さや病弱すぎる体が、いつか永遠の別れを告げなければならぬ、という残酷な予言のように少女の胸を張り裂いた。永遠の別れを告げる日が来ませんように、絶対に来ませんようにと少女は心の底に呟いていた。人間の歩みが砂時計のように、誰にでも少しずつ生いのちの時間を失い、時間の逝くこととともに、いつか必ず生の終点にたどり着く。遅かれ早かれ別れの日はきっと少女の目の前に無慈悲な顔を見せるのだろう。いまきっとどこかの角で待機し、いたずらっ子のようにあかんべえをしつつ飛び出して少女を驚かせるのだろう。あるいは、歩行が困難な老人のように、ふらつく足どりで少女のほうへ向かっている途中かもしれない。いくら足が遅くても、確実に一歩ずつ彼女に近づけてくるのは、逆転することのできない事実であった。あのいたずらっこにしても、あの老人にしても、彼等の目的は一つしかなかった。病人を少女のそばから無残に連れ去ることだった!あのいたずらっこ、あの老人のように、まるでマイナス百五十度の冷血の塊のような存在はこの世にいるのか?   そう。この世に存在しておらず、あの世からやってきた死神なのだ。

 (おかあさん)!    (おかあさん)!」少女は全身の力を尽くして叫びだした。震えた声でずっと叫び続けた。あの震えた声の中に、どれほど深い悲しみ、怒りや苦痛などの感情が交わっていたのか、誰も計る方法を知らなかった。いや、計る方法がないわけではない、ただ悲しみの域を越え、怒りの域を越え、苦痛の域を越えて、計れないのだ。あの声が、ただただ、冷たい病室の中に果てしなくこだましていた。このような年齢において、若い少女は、五感をすべて開きっぱなしで、あらゆる新鮮な体験、おもしろい出来事や、楽しい毎日を待っている。南国の眩しい太陽の下に仲間たちと鬼ごっこや色々な遊びで騒いだりした。皮膚で太陽の暑さを感じた。目で夏空のふわふわしたコットンのような白雲をじっと眺めた。鼻で青臭い草々の匂いを嗅いだ……心配事なく楽しさばかりを受け入れようとするはずの全開にする五感が、このような悲惨なことを迎え、全身の毛穴に悲しみを無理矢理に埋め込ませることに莫大なショックを受けた。無邪気な童心も、何の準備も構えられずに粉々に砕け散った……。

*      *      *

お婆ちゃんがガンで亡くなったのは、陰暦のお正月だった。当時お婆ちゃんは三十代後半で、黙蓮の母親は十歳だった。団らんや喜びを意味するお正月が、あの日から暗い影に覆われる皮肉なお正月へと変わり、この喪失感が母を長年苦しめてきた。特にお正月が近づくと、母は焦慮に駆られ、気落ちし、不眠や食欲不振など周期的な鬱病の症状がひどくなった。祝うべきお正月は、母にとってつらい思い出をもう一度味わわせる日でしかなかった。当時の光景が再びまた再び、広告の入っていない映画のように一刻も絶えずに目の前で上演され、目をしっかり閉じてもあの遠い昔の震えた叫び声が心に何度もこだました。この先も陰鬱な気持ちでお正月を迎えにゆくしかない母の心の傷跡を思うごとに、黙蓮は悲しくてたまらなかった。

こうして長年喪失感に悩まされた母親は、黙蓮への愛しかたが分からない。方法が分からぬというより、むしろ目に見えない束縛のように、常に無力感で体も心も縛られる。娘を愛すべきなのか、愛さない方がいいのかという葛藤の中で、母親の脆い心がいつも揺れている。なぜなら、幼少時代に愛する人に取り残されたショックが非常に大きかったからだ。もし当時母親が物心が付いておらず、もっと小さかったなら、自分の愛する、自分を愛してくれる人を失う意味が分からず、ショックもそんなに大きくなかっただろう。あるいは、もっと大きくて心の備えが十分出来ていたら、喪失感にうまく対応できたかもしれない。母親である自分が娘を愛さなければ、自分が逝っても黙蓮は過去の自分みたいに巨大な衝撃を受けないだろうと母親は思いこみ、極端な方法で娘を育ててきた。

黙蓮は決して愛情をくれない母を憎もうとしない。取り留めなく続いていく感情の悪循環になるのをどうしても自分の力で避けないと、彼女も母のように運命に負け、愛情を表わすのを怖がる非情な人間、いや、非情であるかのように偽る人間になってしまうのかもしれない。

夢を探しにふるさとから遠く離れたこの異郷にきた黙蓮にとって、唯一の癒しは、花に魂が吸い込まれるあの一瞬である。あの屋敷に植えられている、まだ完全に開いていない白羽衣が黙蓮は一番好き。綺麗で淡泊な、ひとひらひとひらで優しく包まれる花の芯は、人間の心のごとく、また自分の母親の傷んだ心のごとく、自己防衛のように深く隠れていて、決して他人に見せない。あの一輪一輪の花に魂が吸い込まれる瞬間、自分の心も一緒に吸い込まれ、花の芯と合体する。これで、黙蓮にはしっかり掴めない、過去と現在の境を彷徨う母親の疲れ切った心と一緒にいられ、母親の無力感をともに感じ取り、娘に愛情を表せない母親の良心の呵責を理解し、長年自分を浮き草のように寂しい思いをさせてきた母親をやっと許すことが出来る。この花を見るたびに、黙蓮の心の中の固く纏綿した様々な葛藤が、互いに引っ張ったり引っ張られたりするのをやめ、力を抜いてぱっと解けていく。

黙蓮の思いが学校・仕事場・ふるさとの間に移りつつあった時にも、Sugiyama Hiroshiの週に一回の注文は一度も絶えることがない。しかし、バラ農園の業者が海外に移住するため、もうすぐこのあたりではバラを入手しにくくなる。遠い県外の業者に頼んでも、長期になると人件費や運賃などが店の重荷になる。もしバラが入手できなくなったら、二倍支払ってくれてもあのお客さんからの注文はもう承れないと店長が言った。そうなると、Sugiyama Hiroshiの注文はどうなるの、と黙蓮は密かに思った。ほかの花屋に注文するようになる?それとも前と同じようにしつこく頼まれる?と色々な仮想に思いを働かせるものの、いまはまだバラを入手できるので、しばらくは問題ないはずだと、自分に言い聞かせた。

四月あたりになると、住宅地区の屋敷の庭にあるあの白羽衣の椿の花がそろそろ土に戻る時がやってきて、一輪一輪散っていく。花自体に散ろうとする気がなくても自然の法則に逆らうことはできぬ。ほかの花の散りかたと違って、椿は花びらがひとひらずつばらばらにならず、一輪一輪丸ごと地上に落ちる。花の性質はもちろん、散りかたも違うが、満開した白羽衣の形や大きさは何となく白いミニバラにそっくり。普通のバラなら大きすぎるが、ミニバラだとちょうど白羽衣の大きさである。いずれにしても、白い花びらが一所懸命外側へのびて、満開した状態に至ったら凋みはじめる。これこそ花の運命である。

Sugiyama Hiroshiの注文も最後となる日がいよいよやってきた。バラ農園の業者から当分バラを入手できる見込みがないという連絡が届いたので、今回を以て最後の配達となり、今後はバラの注文を承れないこと、入手困難のため今回お届けする赤いミニバラも少々枯れていることを許していただきたい云々のカードを、花束に添えた。店長からは、今回の宅配は配達業者に頼まず、お詫びのためもう一束の白いトルコ桔梗を一緒に持っていくように、また配達後は帰っていいと頼まれた。日曜日の夜に、黙蓮は二束の花束を持って、停留所へ向かった。いすに花束を置いてからすぐに現場を去るべきだが、もうこれが最後のチャンスなのかもしれぬと思うと、好奇心が唆し、黙蓮にはある思い付きが浮かんだ。停留所の周りには闇に包まれる灌木林が茂り、身を隠すのに最適な場所である。そこで身を隠したら、Sugiyama Hiroshiに気付かれるはずがない。

しかし、それから十分、二十分経っても、自分の息のほか物音一つも聞こえない。ちょうど三十分が経ったところ、誰かが停留所に近づいてくるのが足音から分かった。朦朧とした街灯の光の下に、一人の男の人が丁寧に花束を取って、中のカードを読んでいるらしい。読み終えたら、落胆するようにがつんといすに腰をかけた。背中が灌木林に面するので、顔がはっきりと見えない。五分くらい経って突然停留所の方向から、

「そこから出てください。」

という声が聞こえてくる。

黙蓮は忽ち恐怖で身が震えた。空飛ぶ円盤が頭の真上から散々と強光を照らしたかのように、黙蓮の隠れている姿が暴かれたのだ。出ようか、出るまいかどうしようかと迷っていると、

「そこから出てください。」

という二度目の響きが、闇をつんざく稲妻のように黙蓮の耳内に打ち込まれた。確かにこれは幻聴でも夢でもない。仕方なくびくびくと灌木林を出ようとした時に、

「もうそれ以上近づかないで。」

と突然言われて、驚きながら彼の後ろに立つしかない。

「あなたは誰?」

怒りも何の感情も込めておらず、非常に穏やかな声で彼はたずねた。

「花屋でアルバイトをやっている人間です。今日は花束を配達に来ました。」

「人間?   名前はないのか。」

「黙です…黙蓮と言います。」

「木蓮?   蓮の花のような形をして、初春に葉っぱのない木の上で満開になる、木蓮?」

「いいえ、あの植物の木蓮ではありません。沈黙の蓮のほうです。」

「黙蓮…」

彼は一人で囁き、さらに言い続けた。

「さ、黙蓮。あなたはぼくに対して様々な質問があるだろう。ぼくもあなたのように解きたい疑問を持っている。」

彼は突然問うた。

「なぜこの世に幸せが長く続かないのか。」

哲学者にさえ完璧に答えられないこの問題に対して、いきなりどう答えるべきなのか。黙蓮は迷った。しばらく彼の背中を見つめたあと、黙蓮は質問を返した。

「流れ水の静止するせせらぎを見たことがありますか。岸に打ち寄せてから海に帰らない波を見たことがありますか。」

彼は何も言わずに沈黙の堡塁へ後ずさりして、自らの領域を守っていた。

「時は移り事情も変わります。すべてが過ぎ去る時が来たらどうしようもありません。」自問自答のように黙蓮は呟いた。

「でも、波が引いたら永遠に岸の元へ戻らないこともありません。ほかの波が何度も岸に打ち寄せてくるんじゃないですか。幸せは一度しか訪ねてこないというわけじゃないし、私たちみんな心の扉に錠をおろさなければ、幸せは何度もあなたの扉を叩きにくるはずですよ。でも、それは耳を澄ませないと聞こえないかもしれませんけど。」

黙蓮は努めて沈黙の城壁をぶち抜きたかった。

しかし、彼は積み上げられた城壁の巨大な石垣の如く頑固だった。恐らく彼の心は、何百層のほぼ透明なニスにまんべんなく上塗りされたように、一見心の形はきちんと保っているが、人がその固い心に触ろうとしても、触れるのはニスの膜だけで、直接あの鼓動している、様々な感情のもつれがきつく結ばれる傷だらけの心を撫でることができぬ現実にため息をつくのである。もはやその心は二度と外界の言動に打たれることができない。

彼はうつむいたまま黙っている。黙蓮も口を閉じて、少しずつ元気を失い、生を遠く離れてゆく、いすの上の赤いミニバラの花束に視線を移した。この花が植物界の自然の法則に背いて再び生気を取り戻すことができないのを、黙蓮は誰よりもよく分かっていた。しかし、彼を残酷な現実に立ち向かわせたくなかった。

「もう帰ってください。」

彼は言い出した。

「あの…私は…」

黙蓮は彼に対してまだたくさんの質問があった。

「頼むから、もう帰ってくれ!」

彼は穏やかさを失い、いきなり大きい声で叫んだ。

突然の大きい声に驚いた黙蓮は仕方なく振り向きもせずに、さっさとその場を去った。

自分の部屋に着いた後にはほっとした。先ほどはもしあの人に何かをされたらどうしようと思ったが、恐怖よりも、あの人はいったいどんな人だろうという疑問がまだ頭の中の隅々を占めている。

それから数日が経った。店長によると、Sugiyma Hiroshiからはもうメールが届かないそうだ。もしかしてほかの花屋さんに発注するのかもしれぬ。しつこく頼まれずに済んでよかったと店長は言ったが、黙蓮は黙ったままで頷いた。

今日も忙しい一日だったと思いながら、夜のバイトが終わっての帰宅途中、黙蓮はひどい光景を目撃した。あの白い椿の木に花が一輪もない!   今朝はここを通ったときにまだ花がずいぶん残っているのに、数時間で突然全部消えた。なぜだろう。あの花はあと一週間くらい持ったはずだが、こうなったら来年の開花まで待たないと白羽衣は顔を見せない。また母親の心を見失ったような気がする……失望なのか、怒りなのか、黙蓮は自らの感情を識別しきれないままで、帰宅した。もうすぐテストがあるので、頭の中の全ての疑惑を追い払い、勉強に集中すべきだと思いつつ、ノートに手をつけた。また救急車のサイレンが聞こえてくる。いや、今度は何となくパトカーのサイレンも同時に聞こえるような気がした。自動車事故なのか。集中しなけらばならぬこの時に、本当に気を散らせる音である。しかも今夜はかなり近くに来ていると思った。夜になったらいつものように耳鳴りがしばらく止まりそうもない。両耳の奥に聞こえるあの不思議な音が、宇宙から発射される信号のように、一刻も絶えずに何かの情報を天の川から黙蓮の耳へ運び込んでくる。すべてを無条件に受け取らねばならぬ。最初は無意識的にあの謎めいた音を聞こうとしたが、長くなると疲れるばかりである。徐々に意識的に音を拒もうとすると、生理と心理との意識の頻繁しすぎる交錯でより一層疲れる。くたびれが黙蓮に向かい、手を振って彼女を夢へと招く……

正体の分からぬ生き物に追いかけられ、黙蓮が前進の力を尽くし、なぜこれほど追いつめられるのかをまったく分からずにひたすら走って、走って、もっとはやく走って、息が切れるほど疲れても、走り続けねばならない。ある崖っぷちまで走ったら、仕方なくもう途切れる。緑に立って謹んで足元に注意しながら、暗闇に包まれる淵の奥底を覗いてみると、不意に誰かに底の見えぬ淵へとつき落とされてしまう。目を閉じて叫びだしたとたん、何となくトントンという声が自分の叫び声と一緒に聞こえてきた。目を開けたらなぜかある人が猛スピードで自転車をこいでいるのに気付いた。あのスピードではきっと事故になるよ。木にぶつけないように、前方からのトラックと衝突しないように、その人と一緒にすばしこく左右へと回避している。「おい!   危ないよ!」と注意しようとしたとたん、あまりのはやさで、みるみるうちにその人が自転車に乗ったままある深さの予想できない真っ黒な湖に墜ちていく。なぜが自分も黒い水に濡れているような心地がし、しばらくすると目の前に真っ黒で何も見えないまま絶望のどん底まで沈んでいく。自分がずっと目撃していた、自転車をこいでいる人が赤の他人でなく、紛れもない自分自身であることに非常に驚愕した。自分の存在さえ気付かないことに、あまりの驚きでふと目が覚めた。

なぜかまたトントントンという音が聞こえてくる。誰かが黙蓮の部屋のドアを強く叩いた。さっきのは夢かと思いつつ、慌ててドアを開けると、一人の警察官が目の前に立っていた。同じアパートで、正確に言えば黙蓮と同じ二階の住民に事故が起きたようである。隣の住民を知っているかと聞かれ、一年前ここに引っ越してから一度も会っていないのですと答えた。何があったんですかと聞いたら、警察官は慎重な表情で、自殺事件があったのだと教えた。夢から目覚めたばかりの黙蓮はあまりのショックで言葉が出なくなった。いまのことも夢でありますようにと願っても、この世には叶えられない願いが多すぎる。

隣の部屋を覗いてみると、黙蓮は自分の目が信じられないほどの惨状に慄然とした。部屋はとくに非常に散らかっているわけではないし、天井が床に落ちたわけでもなかった。しかし、部屋の中には茎から切りとられた満開の赤いミニバラが数十輪隅々まで散らかっていた。その鮮やかな紅色が目に届いたとたん、黙蓮は巨大な恐怖に襲われるようにひどく身震いした。実際には、数十輪の花は赤いミニバラではなく、鮮やかな紅色の白羽衣だったのだ。そう。純白な白羽衣ではなく、紅色の白羽衣だった。自殺をはかった人は自らの血で白羽衣を赤いバラのように鮮明な紅色に染め上げた。その凄まじい光景は黙蓮の神経を走らせ、言いしれぬほど心を痛めさせた。誰ですかと聞いたら、杉山尋志(すぎやまひろし)という。その響きが耳に届くやいなや、黙蓮は突然雷に打たれ、電流が全身に行き渡るように、耳鳴りがひどくして頭皮が凝っている。Sugiyama Hiroshi!   Sugiyama Hiroshiがずっと隣に住んでいた!   なのに、黙蓮にはぜんぜん気付かなかった。なぜそんなこと……

ちょうど一年前大学を卒業したばかりの杉山尋志は、結婚式の直前に交通事故で婚約者を失ってからずっと底なしの苦痛の淵より出られなかった。婚約者が小柄で赤いミニバラが大好きらしくて、部屋にいつも飾っていた。赤いミニバラが入手できなくなることがきっかけというより、むしろ自分にはもう救いのないことを信じ込んで、帰らぬ人の道を踏み出すことを決めたのだろう。彼は自分の愛する人、自分を愛してくれる人を失った。赤いミニバラも失った。生命に対しての情熱も失った。結局彼は生(いのち)への道を諦め、自らの血を叶わない恋へ捧げ、体内の赤い液体を流し尽くす道を選んだ。愚かな執着心の分子が彼の血管に流れ、彼の心の中に長く据え付いた。彼の唯一の解脱方法は、あの赤い液体を脈から解放し、心を占めている執着の念をあの液体と一緒に体外へ流し尽くさせることしかなかった。彼も黙蓮のように白羽衣がミニバラに似ていることに気付いた。失った婚約者に対して最後に出来るのは、彼女の大好きな赤いミニバラを捧げること。しかし、赤いミニバラがもう手に入れられないので、そのかわりに白羽衣を赤に染めて……

「恋の中に狂気がある。狂気の中に正気がある。」とニーチェが言った。狂気なのか、正気なのか、黙蓮には分からない。ただ、二人が停留所にいたあの夜にしつこく彼を問い詰め、逝く恋が病みつきになるのをやめさせるように説得できたならば、若い彼が自らの人生の舞台からこんなふうに下りることを止められたのかもしれない。隔てるものは壁一重だけという隣部屋にいたのに、なぜ助けてあげられなかったのか。黙蓮は悲しまずにいられない。なぜ全然彼の存在に気付かなかったのか。彼が脈を切って白羽衣を赤く染め上げたとき、黙蓮は悪夢の中で彷徨い、あの真っ黒な湖に落ちていく自分にさえ気付いていなかった。自分という影の希薄な存在に気付かないなら、周りの他人の存在に気付かないのも不思議ではないのか……答えのない多くの質問を心に、頭に、懐に入れても入れきれない。取り残される質問を握ろうとすると、握りきれない質問が掌の中にあふれる白い砂のように指の隙間から落ちてゆく。

なぜ人は揺れるのだろう。南国には地震がない。耐震構造でできた建物は地震を恐れず、たとえ突然地震に襲われて建物が揺れ動いても、全般的に崩壊して廃墟になることはない。建物の構えさえしっかりしていれば、少なくとも外界の変動に耐える能力を持っている。もし人間の心にも耐震機能があるとしたら、地震のない南国に住んでいる黙蓮の母親にしても、地震帯の国に住んでいる杉山尋志にしても、外界の変動、つまり世の無常にそれほど深く苦痛を感じ、心をそれほど強い震度ではげしく揺れさせることがなかったかもしれぬ。しかし残念ながら、建物の耐震機能は人間の心には適用できない。また、現在は偽装耐震が多いので、世の無常に対して、完璧に対応するのはもはや無理だろう。

学校で三角形の度数をどうやって計算するのか、魚が冷血動物で人間がほ乳類であることは教わるが、どのように人生の中の色々な挫折にまけずに立ち向かい、どうやって孤独や喪失感を克服すべきなのかは教わってこない。愛する、愛される人を失うという言い表しようのない喪失感は、年齢や教育と関係ないことだと黙蓮はやっと悟った。下駄も仏も同じ木のきれの如き。教育を受ける前の幼い母にしても、すでに成人して大学の教育を受けた杉山尋志にしても、人間は人間で、自分さえうまく把握できぬ複雑な感情で自然の法則に巧みに対応できずに、ずっと生(いのち)の意味を問い、死の深意を探り、人間としての存在価値を追求し続けている。

シェイクスピアはこのように言った。「待つ人々にとって、時間の流れは、非常に遅い。嘆く人々にとって、時間は、非常に長い。楽しんでいる人々にとって、時間の流れは、非常に速い。愛し合う人々にとって、時間は、とわにとまっているのです。」

母親にとって、または杉山尋志にとって、時間は、非常に長くて耐えがたかったに違いない。しかし、それは愛情を諦め、生を放棄する言い訳にはならぬ。

もうそろそろ夏だ。赤を忘れよう。白を忘れよう。青いTシャツを着て、果てのない紺碧の茫洋たる大海を、見に行きたい……

「さらば、Sugiyama Hiroshi。」

(おかあさん)我就快返来啦(もうすぐ帰るから)你再等一陣啦(もうちょっと待っててね)!」

と黙蓮は密かに呟いた。

─完─

【注】
(一)白羽衣(しろはごろも):羽衣の実生品種。八重蓮華咲き。二〜四月頃開花。
(二)広東語


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