久々に韓国に帰り、ソウルから故郷大邱(テグ)に戻るKTXの中。
「まもなく我が(ウリ)電車は東大邱、東大邱に到着します…」
何かおかしい、「我が電車」とは。いつもの習慣どおり、日本語と比較するために日本の同じ車内放送を思い起こしてしまう。
「我が(ウリ)電車」でなく「この電車」だろう。
日本に来て間もない頃、韓国語のこの「ウリ」を自分の日本語の中で使うためどれほど苦労したことか。最初は辞書を信じ「我が」をつけた日本語を頻繁に使っていた。が、どうも違うことに気づく。そして韓国語ではよく使っていたこのウリは日本語の中で姿を消していった。
ところが、韓国語ではなぜ「ウリ」が多用されているのか。所詮は複数の一人称代名詞であるのに。イラクでの人質事件を例に挙げるとわかりやすい。「ウリ」に慣れている韓国人として、日本の人質に対する自己責任論には唖然としてしまったからである。韓国もイラクで人質になった人が一人殺されている。そのときの韓国国民の反応はどうであったか。もしそのとき、日本のように韓国政治家の一人が自己責任論を言い出したら? その人の政治生命はその場で終わっていたに違いない。いや、それくらいで済むものでない。たくさんの人に批判され当分街を歩けなくなるだろう。当時韓国の国民やメディアの流れは人質を自分の家族や親戚のように心配し、何とか助けなければ可愛そうだという雰囲気であった。各地で人質のために蝋燭をともしたデモがあり、メディアでも狼狽したり泣き崩れたりしている人質の家族を映していた。日本人には危ない同情として見られがちだが、韓国でそのような意見を述べたら大半の人から「お前、それでも人間なの」と言われてしまう。ウリに起きた大変な問題ともなれば、現実よりも知性よりもまずは人間性である。
日本の割り勘システムを韓国人は日本人の国民性の特徴的な例としてよく挙げている。逆に言うと韓国人の食事の勘定には、韓国人の「ウリ」を重視する考えがある。一緒に食べた食事の計算を分けて行うのは、食事文化を重要視する韓国人にはウリを解体することに映るのである。また、年取った政治家たちが遊説でよく唱える文章に「ウリガ ナミガ」がある。「私たちは他人同士でない」という意味だけで、日本人には特に意味をなさない文章であるが、韓国ではそれだけ言えばすべてが伝わる遊説であったりする。
そのウリ意識の強さは、逆にその排他性として現れる。中国の華僑が、地理的にはもっとも近い国であるにもかかわらず世界のどの国よりも定着できなかったのが韓国である。人々の趣味を見てもそこにはウリが居座っている。日本は個が生きている。個性的なデザイン、考え方、人が多い。それに比べ韓国は、女性が背負っている鞄だけを見てもその人が韓国人だとわかってしまうほど趣味が似ている。最近の韓国の若者は個性的になろうとしているが、やはりウリの中の範疇に入る魅力からは逃れられないようである。
また、このウリのため韓国人がいう「寂しい」という言葉は日本人が言う同じ言葉と響きが違ってくる。韓国人はあくまでもウリの中で言う「寂しい」なのでその文句を聞いてくれる相手がいる。一方、日本には属さなければならないウリがない。迷惑をかけてはならない他人だけが存在する。よって日本人が言う「寂しい」はどこにも向かっていなく絶望的に聞こえるときがある。
貧しくても苦しくてもハン(恨、日本の恨みとは違う)が溢れてもそれを一緒に分かち合うウリがいる。この関係は冷静に見ると感情が入りすぎて非知性的に、または先進化していない人間関係に見えるかもしれない。しかし、そういったことは気にしない。そう思うことを人間としてやることではないと責めることはあってもウリを崩すことはない。それが韓国のウリである。
このウリの韓国が最近ブームである。そのおかげで韓国のことがよく紹介されているが、その中であるテレビ番組で「多情だ」という言葉の意味を説明しているのを聞き、なるほどと思ってしまったことがある。日本語の「多情」には情愛が深いことも意味するが気が移りやすいといったどちらかというとネガティブな意味合いが強い。しかし韓国語だとやさしい、親しい、気心の知れた間柄などの暖かい意味で使われる。この言葉もやはりウリのように人間関係、間柄を説明する、日本語にはなりきれない韓国語である。
日本に留学しに来た高校の同級生が来日してすぐの頃、手帳にこの「情」という言葉が書き記していた。情、多情、人情。日本語として言ってみてもなかなか韓国語の雰囲気が出てこない。
ウリの中で人間が持つべき姿。人が人を支えるウリの中の人間であるため、困っている人がいればどことなく現れ、にっこり笑いながらに手を差し伸べる。それが情であり、そういった情に溢れる人、隣にいるだけでほっとするような人が多情な人である。しかもそれは人間だけが持つ美しい姿であるため人情にもなる。
日本のやさしさは世界に誇れるレベルある。しかし、韓国の人情は日本のやさしさとは違う。日本のやさしさは人の困っているのに気づき、それに気を遣うことを意味する。韓国の人情は気遣いになってはならない。特別なことでなく当然やるべきことなので、受ける側ももちろん感謝の気持ちは抱くべきだがそれを負担として思い過敏な反応はしてはいけない。もらった助けに対していちいち忘れずに物などを持って礼を言ったりすると逆に、「お前と俺との関係はそんなものではない。何も言わなくていいよ」と言われてしまう。受けっぱなしでいい。重要なのはそういったやり取りの中で深まる何かである。こうやって深まる情を韓国語では「情が染みる」と表現する。他人同士の人間に対する礼儀としてのやさしさでなく、ウリとしての人間としての助け合いや間からでの情なのである。よって韓国の情は優しさだけを意味するのではない。時には喧嘩や葛藤も意味する。その中でも情が生まれる。
日韓の言葉の違いに関して、もうひとつ説明したい言葉がある。日本語の「懐かしい」と韓国語の「グリップダ」である。もちろん辞書には同じ意味になっている。だが、日本に留学している韓国人として、この二つの言葉から感じる深みの違いは大きい。日本語を外国語として習得している自分としての「懐かしい」は、学生たちが、昔自分たちが見ていたアニメや漫画の話が話題になったとき出てくる言葉としての印象が強い。「昔、そういうこともあったね」といった程度のニュアンスである。もちろんより深い意味を持っているはずの「懐かしい」だが、勉強不足のせいかあるいは周りにそこまで切なく懐かしむものを持っている日本人が少ないせいか、この日本語から「グリップダ」のような切なさを感じることはできない。韓国語だと子供のころ見ていたアニメなどに「グリップダ」という言葉を使うことはできない。
韓国のグリップダといえるものはやはり故郷や人である。カナダで留学をしている小学校時代以来の韓国人の友達に「グリップダ」を聞いて思い出すものは何なのかを聞いてみたところ、小学生の頃歩いていた故郷の通学路と答えた。
情が染み込んでしまったものである、韓国人が「グリップダ」と思うものは。引き裂かれたしまった国であるため戻ることができなくなった故郷、経済成長に伴い田舎から都会には出てきたものの厳しい現実のため帰れない故郷。冬のソナタではないが、昔亡くしてしまった、愛した人。これらのものが、ハン(恨)がこもってしまうほどグリウン(グリップダの連体形)ものである。
韓国のハンは晴らすものではない。結ぶものである。ずっと積もっていつの間にか実のように結ばれてしまうものである。日本語のウラミには人間に対する憎悪のニュアンスがある。しかし、韓国のハンは人間に対して使う言葉ではない。ある日本人記者の説明を引用すると、このハンは
「自分がいるべき場所、あこがれている場所にいることができない、その無念さや悲しみ、そういうものが歴史的に積もっていく、あるいは自分の人生の中で積もっていく、そういう感情がハンなのです」
とのことである。ハンは場所に限るものではない。自分と居合わせるべきもの、情を交わすべきウリの中にいるはずのものだが、理不尽な理由でなくなってしまったものに対する無念さである。それがまさにグリウンものである。時には身に染み込み、骨まで染み込んでしまう程グリウンものでもある。だが、敢えて取りに行ったりしない。そうすることすらできない。ただ待つだけ、ハンが結ばれてしまう程グリップダと思い続けるだけなのである。
「この電車は京成線、上野行き…」
KTXの車内放送で様々なことを考えたりはしたが、無事に韓国での日程を終え東京に戻る電車までたどり着いた。日本に来てから11年目が過ぎようとしている。もはや昔それほどつらかった帰りの京成線も、今や戻ってからやるべき仕事を考える場所となった。
だが、今日は一言口から漏らしたい。
「私は多情なウリがグリップダ。」