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奨励作品賞受賞

「いつもそこから」

金 海鎮 (キム ヘージン)

男 韓国1995年来日。東京外国語大学日本語課程(=日本語学科)で日本語専攻。その後、同大学院地域文化研究科(言語文化コース)に進学、現在に至る。2005年3月修士課程修了予定。
1969年 3月 日生

円筒形に作られている学生食堂はあふれんばかりの活気でごった返していた。

「前、空いていますか」

ラーメンをすすっているところだった。声がしたほうに立っている女の子を一目見て、ソギルは左手でどうぞの意志を伝えながら視線を戻した。

ちょっと見覚えのあるような顔だと思った。同時に前にもあった場面のような感覚も起こった。一瞬デジャビュという言葉が脳裏にのぼったが、それとも異なるような感じもした。微妙にすれ違うその細い線を手繰ろうとした瞬間だった。

「キムさん!」

女の子の声はほとんど確信に満ちていた。

無表情にあげたソギルの顔をほんの一瞬確かめるふうをして、女の子は笑みをつくって彼の前の椅子に腰をおろした。

懐かしい顔。長崎であの時感じたことのある、清涼な風が体を吹き抜けるような感覚がソギルの中に起こった。

「やっと会えたわ」
「ハン、ナ?」
「そう、ハンナです」
「どうしてここにいるの?    …まさっ、か」

信じられなかった。しかし信じてはいけない根拠も必然性もないのにそんな気持ちに支配されるのは一体なぜだろうと、ソギルは不思議に思った。

「多分そのまさかかな」

タイミングを計ったかのように二人は沈黙し、しばらく懐かしみ合った。先に口を開いたのはハンナだった。

「キムさん、前とすこしも変わらないね」
「そう? それより、ハンナは俺がまだこの学校にいるの、知ってたの」
「うん、留学生課というところに行って訊いてみたの。三年間、わたしを待っていてくれた人がいないかしらって。
これは嘘ね。
でも、待っていてくれたんでしょう」
「いや……」

ソギルは言葉をさがしたが、みつからなかった。

「はい、といって」
「はい」

つられるように答えた。ソギルはハンナの言葉遣いが以前と少し変わっていると思った。そういえば顔も少し大人びて、表情も豊かになったように見えた。

「二次試験が終わった日ね、実はわたし、飛鳥山公園に行ってみたんだ。もちろんキムさんのおうちにも行ってみたの。懐かしかったとっても。でも、寂しかったなー。キムさんがいないんだもの。住んでいたアパートもなくなっているし。きれいに立て替えられていた」

ハンナはそういい、にっこりと笑った。

「じゃ、本当にこの学校に入ったの」
「そうよ。約束したでしょう」
「約束?」
「ひどーい。手紙にもちゃんと書いたはずなのに」

家出の少女が実家の長崎へ帰った後まもなくして、彼女の母親から簡単なお礼の手紙を添えて現金書留が届いた。それから程なくして届いた少女からの手紙。
『……それであたし、三年間しんぼうして、大学は東京のほうへ行こうと決めました。あたし、もともとバカだから、東京の大学なんか入れるかどうかわからないけど、できたら、キムさんがいる大学に入りたいと思っています。あたし、がんばるからね。キムさんにまたはやく会いたいです。ちょっと辛かったけど、またおいしい料理、作ってくださいネ。

ところで、…彼女とは仲直りしましたか。…ちょっとおこがましいかもしれないけど、もし、そのことでだめになっていたとしたら…いや、やっぱりなんでもないです。

とにかくあたしは東京へ行きます。キムさんにまた会えるのを楽しみしています。キムさんも、あたしと会えることを、少しは楽しみにしていてくれますか。

それとも、もしかして卒業したら、お国のほうへ帰るのかな…。
ではまた手紙します。さよなら』

ソギルの脳裏に幾つかの記憶の断片がよみがえった。その後付き合っていたボラとはそれきりになってしまった。そのことをハンナに伝えたのだろうか。はっきり覚えてはいないが、そうはしなかったと思う。そう信じたかった。そして翌年の夏休みにハンナと再会するまで手紙のやり取りは二、三回続いていたと思う。

「俺もハンナには会いたかった」

ソギルはそういった。しみじみさが込められていなかったにせよ、けっしてリップ・サービスではなかった。

「ほんとに?」
「ほんとに」
「キムさん、いまからどうする? 授業とか予定あるの」
「別にないけど」
「じゃ、うちにこない? お祝いしようよ」
「何の?」
「再会の。それに、これからの二人の」
「ハンナ、実はね、俺、学校や…」

ソギルは喉まで出かかった言葉を元に戻した。

「なに?」
「いやなんでもない。行こうかお祝いに」

円筒形の食堂を出ると、初夏を髣髴させる陽気に連れ立った薫風が頬に吹き当たった。二人は並んで広い校庭の真ん中を横切った。南風が構内の一角にわずかに残されている小さな森のほうから桜の花びらを回転させながら送り込み、足元に敷き詰めている。ベンチに座り、噴水を囲み、芝生の上にも、見慣れないフレッシュな面々が三々五々歓談している姿がソギルの眼に入った。一面の芝生がピンクの花びらに覆われ、その間に見える緑の新芽と見事なコントラストをなしている。春という季節のみに許された初々しさが校庭のあちこちに満ち溢れていた。

ソギルとハンナとの間に何通かの手紙のやり取りがあった。そして夏を迎えた。ソギルは夏休みに日本では初めてのヒッチハイクに出た。

学校主催で毎年行われる留学生旅行があり、その年は金沢方面だったが、ソギルはその帰り現地でみんなと別れ、そのまま旅路についたのだった。

福井、京都、大阪、神戸、広島。当初の予定は広島までだった。ところが、旅の途中でひろってくれた仙台のある高校教師からの強い勧めもあって、長崎まで足を伸ばすことになった。夕焼けや夜景がとても綺麗だということだった。

確かにそれらの美しさもさることながら、長崎はソギルにとって独特な雰囲気をかもし出す町だった。道行く人々はみんな親切で、時間はゆったりと流れる。ほかの都会とは違う時間の刻まれ方があるような気さえした。

1日目は行きずりのおじさんの家に泊めてもらった。2日目は海を見たさに地図を頼りに野母崎というところへ向かった。脇岬海水浴場にある海の家で仕事を手伝い、泊めてもらった。

ソギルが迷った末ハンナの家に電話をしたのは、海の家で3日を過ごして海水浴客の車をひろって長崎駅前に着いてからだった。

彼が最初電話をした時、ハンナはいなかった。母親らしい女性にまだ学校から帰ってきていないといわれた。電話の向こうにいる女性に名前と持ったばかりの携帯の番号を教えて伝言を頼んだ。

駅前をぶらぶらしている間ソギルの心は揺れた。彼は二時間が過ぎたのを確認すると、ちょうど停車していた車のドライバーに声をかけてひろってもらった。佐世保行きだった。

長崎市内を抜けて北上している時に着信音が鳴った。ハンナだった。ソギルは一瞬迷ったが、西海橋の前で降ろしてもらった。

長崎市内へ向かう車はなかなかつかまらなかった。やっと駅の近くを通るという営業帰りのワゴン車が止まってくれた。長崎駅に着いたのは二十時を過ぎる頃で、夜の帳がほぼおりかかっていた。

ソギルはハンナの思わぬ喜びように少々戸惑った。駅の改札口の前に立っていた彼女は、大きな登山用リュックを背負って陸橋を降りている彼を見つけると、駅前の広場を突っ切って駆けてくるなり、人目もはばからずに両手を彼の首に回して抱きつくのだった。

ハンナの胸の鼓動がソギルの体に伝わり、とろけるような奇妙な感覚が彼の体中に広がった。二人は駅の向こう側にある吉野家に入った。ハンナは長崎の地にソギルがいるのを不思議がった。彼は牛丼をむさぼった。

店を出てしばらく歩いた後、母親にも話しておいたからといってハンナは、自分の家に泊まっていくことを勧めたが、ソギルは断った。

ハンナの乗るダイヤランド行きのバスが来た。バスに乗りかけた彼女が振り返り、あたし必ず東京へ行くからね、といった。ソギルは微笑みながら手を軽く振った。

そして痛みは突然を装ってやってきた。旅も終わりに近づき、静岡で帰宅へのラスト・スパートをかけようと意気込んだ際、ソギルは右肩の方に筋状に走る痛みを感じたのだった。その時すでに体に何ものかが宿り始め、彼は得体の知れぬ病魔に長い間苦痛を強いられることになった。

以来ハンナから届いた手紙にも返事を怠るようになり、アパートの撤去に伴って引越しを余儀なくされた。ハンナとはそのまま連絡が途絶えてしまった。それからおよそ三年の時が流れ、彼女は本当に東京に出てきたのだ。

ハンナの部屋は小奇麗だった。ベッドの上に白のカーテンを濾過された西日が落ちていて、部屋の片隅にデスクトップのコンピュータが置いてあった。壁にかかっているコルクボードの枠内にはスケジュールや時間割や何枚かの用紙が体裁よくとめられていた。開けっ放しになっている押入れのダンボール箱の中には、整理を待ちあぐねている無数の文庫本がぎっしりと詰まっていた。

「キムさん、のみもの、何にしますか。コーヒーか紅茶しかないけど」
「じゃ、紅茶にしようかな」
「分かった」
「三年と半年が過ぎたね」

スミレ模様のカップに沸騰したばかりのお湯を淹れている姿を見つめながら、ソギルは独りごちた。しかしその声はハンナにも届いた。

「なにが?   あ、あの時のことね」
「覚えている?   初めて会った時のこと」
「もちろん。忘れられませんよ。今日があるのもみんな、キムさんのおかげですから。神様だよキムさんは。小娘の神様」

ハンナはそういいながら運んできたコップをソギルの前に置いた。

「それ何」
「紅茶」
「いや、そうじゃなくて、神様の話」
「あ神様ね。知らないの?   小僧の神様」
「食べ物?」
「違うよ。志賀直哉という人が書いた小説。ほかに城崎にてとか、和解とかもあるけど」
「へえ、そうなんだ」
「志賀直哉、知らない?」
「志賀高原なら知っているよ」
「キムさん、まだ勉強が足りないね」
「そうかもな」
「冗談だよ冗談。わたしまだキムさんほどしゃべれる外国人に会ったことないもの」
「ありがとう。で、ハンナは文学とか好きなの」
「小説とか読むの、好きなんだ。将来ね、自分でもなにか書けたらいいな、なんてね。ところでキムさんは、日本の小説とかあまり読まないの」
「ほとんど読まないな。最後まで読んだことのある作品は、ショート・ショートというやつを入れて、指で数えるくらいなもんじゃないかな」
「好きな作家とかいないの」
「特にいないけど、名前だけなら結構知っているよ。川端康成でしょう、夏目漱石に、柳美里、バナナにメロン、そしてクタバレシメイ」
「フフフ。メロンはそうだとして、最後の人は誰?」
「知らないの。数日前からハンナが通うようになった学校の先輩なのに」
「そんな名前の作家がいたの。ひょっとしてペンネーム? ク・タ・バ・レ・シ・メ・イ。もしかして二葉亭四迷のこと?」
「いい勘しているじゃない」
「面白い。キムさんの創作?」
「いやいや、そんな大それたことできるわけがないでしょう。そんな発想力があったら、今頃ここにゃいないと思うよ。今流行りのお笑い芸人にでもなっていると思うよ。実はね、学部一年のときにね、『日本文学史』という授業があったんだ。その授業を担当していたお爺さん先生が話してくれたよ。街のどこかでいつでも出会えそうな人だった。その先生の語り口というのかな、話し方が独特でね、面白かったよ。昔の文学者達とあたかも友達だったかのようにしゃべる先生でね。でも俺は、その先生の授業の大半を、よそのサッカー授業と交換しちゃったんだけどね」

最近あまり人と話すことのなかったソギルは、堰を切ったかのように口をついて出てくる自分のしゃべりに心の中で驚いていた。

「ね、キムさん、その先生、もういないの」
「うん、翌年だったかな、定年退職したよ」
「そうか。わたし、キムさんの話を聞いて、その先生の授業に出てみたくなったのに」
「退職してなくてもそれはできないと思うよ」
「どうして?」
「とかじゃないんだよ。専攻科目の授業しかもってなかったんだ」
「専攻科目はもぐりとかできないの」
「もぐりって?」
「こっそり潜入すること。今東光も東大のモグリ学生だったらしいのよ」
「コントコウ?」
「こん、とうこう!」
「それも人の名前なの。格闘技みたいだな」
「あまり知られてないかもしれないけど、でもすごい人なんだよー」
「どのようにすごいの」
「川端康成の親友でもあった人でね、お坊さんになったり、政治家になったり。もちろん小説も書いたの」
「へー」

ハンナの変化ぶりは驚くべきものだった。やや大人びている感じをのぞけば、見かけは以前とそれほど変わっていないと、ソギルには思われた。

彼が初めてハンナと出会ったのは、飛鳥山公園だった。彼はその時学部三年で、その日ハングル講師のバイトの面接からの帰りだった。

幾度かの木枯らしがやってくると、秋は急速に次の季節に向かって舵を切っているかのように肌寒さを実感させた。その日東京はぐんと冷えこみ、一気に氷点下にでもなってしまいそうだった。

空は見渡す限り一点の雲もなく冴え渡り、誰かがドッキリを仕組んで貼り付けたとでも思わせるほどの大きな月が、寒さをさらに増幅させたのかもしれない夜だった。

ソギルは日暮里から京浜東北線に乗って王子で降りた。飛鳥山公園を突っ切るつもりで後方の小さな改札口を出て、陸橋を渡るとすぐ丘のような所にある階段をのぼった。

ふと寒さも忘れて大きすぎる十六夜の月に見とれながら、公園の頂上から緩やかな下り道をゆったりと歩いている時だった。後ろから蚊の鳴くような声がした。  

先を急いで追い越されたサラリーマンふうの男性の外には人影はなかったはずだったので、ソギルは不思議に思いつつゆっくり振り返った。

中学生ぐらいに見える女の子がいた。寒そうな格好だった。

「どうしたの」

ソギルが彼女に近づきながら訊いた。

「あのー、あのー…」

彼女はいざよいの月のごとく言いためらった。しかも小刻みに震えていた。

「どうしたの。僕に何か」
「ちょっとあそんで…」

ソギルは唐突だと感じたが、女の子なりの勇気を振り絞ったような表情がすぐ見て取れた。彼には彼女の言い放った言葉の意味がまだはっきり飲み込めなかった。

「遊ぶ?   …もしかして、援助交際のことかな?」
「……」

ソギルの半信半疑の質問は彼女の沈黙によって肯定される結果となった。

「きみ、本気で言っているの。…こまったなー。僕の偏見ならごめんね。でも、そんなことする子には見えないけど」

言葉は選んだつもりでも、嘘偽りではなかった。彼にはそう思われたのだ。

「お金が…」
「お金がほしいの」
「……」
「いくら? あのね、僕はね、今持ち合わせが少ししかないから、二千円ぐらいなら貸すよ。いやなんならあげてもいいけど。ただ、援助交際はちょっと、やめたほうがいいんじゃないかな。事情は分からないけどさ」
「ちょっと、足りな…」

女の子は終始震えていて、常に言葉の最後が結ばれることはなかった。

「足りないって、いくらを、なにに使いたいの」
「泊まるところが…」

そこまでいうと、彼女は今にも泣き出しそうな顔になってきた。ソギルの頭にはやっと家出という二文字が浮かんだ。

「そうか。もしかして家出?」
「……」
「どこから来たの」
「ナガ、サキ」
「長崎か。…えー? 長崎? まさか、あの九州のほうの長崎?」
「はい」
「うわー、いつ出てきたの」

ソギルはわれながらよくも間の抜けた調子の言い方をするものだと思った。

「四日前です」
「今までどこで泊まったん?」
「上野で知り合った高校生のお姉さんたちの…」
「それで援助交際を教えてもらったというわけ?」

女の子は答える代わりに小さく頷いた。ソギルは警官と職務質問されている少女の関係のような奇妙さを感じて、話を変えることにした。

「お腹すいてないか。寒いだろうその格好じゃ。よーし、答えを出そう。兄さんの顔、よーく見て。地肌でやや黒いけど、どうだ? 信頼できそうな顔、しているか」

彼は冗談交じりにいった。

「はい」

彼女は硬かった表情をこころもち崩し、あっさりと答えた。

「なら、ついてきなしゃい」

ソギルはアパートの二階の自分の部屋に女の子を連れて行った。冬用に用意しておいた炬燵を出してその中に彼女を入れ、急いでご飯を炊いた。六畳一間の部屋に不釣合いな大型冷蔵庫の中からはありったけの材料が出され、国籍不明の炒め物が完成した。

「遠慮しないでいっぱい食べてね。ご飯ならおかわり自由だよ」
「ありがとうございます」

しばらく黙々とお箸を動かしていた女の子が、多少いぶかしげな表情をソギルに向けてきた。

「ちょっと気になっとっとばってん、いっちょ訊いてもよか」

突然彼女の口から出た言葉は、何か訊かれている、というニュアンスが伝わっただけで、彼にとっては日本語を装ったまるでもう一つの外国語同然だった。

「は? 今なんと言った?」
「ごめんなさい」
「いや、責めているわけじゃないからね。面白いよなかなか。それ長崎弁? もう一度言ってみて。ゆっくり、少しずつ」
「気になっとっとばってん」
「きになととばって」
「気になっとっとばってん」
「気になっととばってん」
「いっちょ」
「いっちょー」
「訊いてもよか」
「訊いてもよかー」
「よし、やってみるね。えーと、さきから、気になっととばってん、いっちょー、訊いても、よか」
「お兄さん、すごい。でも、ちょっとおかしい」

女の子の顔からはじめて笑顔らしい笑顔がこぼれた。おかしさの正体は意識のし過ぎとイントネーションによるものなのだろうとソギルは思った。言葉の自然な流れをせき止めると、滞って歪曲したように響いてくるのは必至である。言葉に限ることでもあるまい。

「しかし、意味がいまいち分からんな。都弁にすると、どうなるんだ?」
「みやこべん?」
「つまり、標準語ですな」
「さっきからちょっと気になっていたけれど、ひとつ訊いてもいいですか」
「そうか。聴いてみると意外と簡単だね。それで? 何が気になっととばってんかな?」
「フフ。あのー、お兄さんは日本人ですか」
「いいえ。こう見えても一応、外人やってますね」
「あれはなんですか」

彼女の指差す方には小さな国旗がかかっていた。

「あれはね、テグッキというやつなんだ。ほら、日本にも日の丸と呼ばれる国旗があるでしょう。いや、国旗じゃなかったっけ? まとにかく、あれは韓国という国の旗だよ」
「じゃ、ひょっとしたらお兄さんは韓国人?」
「多分ひょっとしなくても韓国人だと思う」
「何か意味でもあるんですか」
「意味って?」
「たとえば、部屋の中に必ず飾っておかないといけないとか」
「そんなことはないよ。ただ、ただほら、そこに山があるから登るとか何とか言うじゃない?! アルピニストとかが」
「アルピニスト?」
「あ、登山家ね。それと同じことだよ。そこら辺にたまたま旗があったから、かけたまでのことさ」
「お名前はなんですか?」
「お名前? あの旗のか」
「いいえ、お兄さんの」
「ああ、僕か。そういえばまだ、お互い名乗ってないな。僕はキム・ソギル。君は?」
「神山、帆菜です」
「カミヤマ、ハンナか。和洋折衷、という感じだね」
「え? 何がですか?」
「名前が。ほら、苗字の神山はいかにも日本的で、したの名前のハンナは、西洋チックじゃない」
「そうですかー」
「ハンナは、いい名前だね。しかも韓国語にもなるんだよ。韓国語で、ひとつ、という意味なんだ。幼児語だけど。じゃこれからしたの名で呼んでもいい?」
「いいですよ。ところで、あたしはなんと呼べばいいですか」
「キムさんでもいいし、兄さんでもいいよ。本当はそろそろおっさんの仲間入りといったところなんだけどな」
「では、あたしはキムさんと呼びます」
「いいよ。じゃお互い名乗ったところで、僕もいっちょー、訊いてもよかですかな」
「フフ、どうぞ」
「なんでまた東京へ? 学校は?」
「……」

顔から一瞬にして笑みが消え、ハンナは黙りこくった。

「そうか。あまり話したくないんだね?   まあいいや。疲れているだろうから、今日はここでゆっくり休みなよ」

その夜、ハンナはソギルの部屋で泊まった。いつもの畳の寝床を彼女に譲り、彼はリサイクル・センターでもらってきたばかりのソファー・ベッドに寝た。
翌日の朝、学校の支度をしているソギルに、ハンナはいつまで居させてもらえるのかと控えめに訊いた。彼は好きなようにしてもよいといい、ただ親が心配するからちゃんと電話だけはしておくようにと頼んだ。彼はその時思わず思い出した過去の苦い記憶に内心苦笑いした。

翌日もその翌日も、ハンナはソギルの部屋で過ごした。

流し台で片づけをしていたハンナが、突然ソギルのほうを向いて声をかけた。

「キムさん、今夜予定ある?」
「特にないけど、なんで?」
「泊まっていかない?」
「ここで?」
「うん、恩返ししてあげるから」
「何の?」
「昔々、宿なきある可愛い女の子をひろい、あったかいご飯をご馳走してくれたことの」

ハンナはタオルに手を拭きながらいった。

「ご馳走ならいただくけど、泊まるのはちょっと」
「どうして? 約束でもあるの」
「ううん。だって、…俺男だよ」
「知っているよ。昔から男だったんでしょう」
「俺が言っていることの意味が分かってないなー」
「分かっているもん」

ハンナは口をすぼめた。ソギルは、実はハンナの誘いがうれしかった。ほぼ空っぽになっている寂寞たる部屋が浮かんだ。ハンナはさらに強い調子で頼んできた。結局彼女の部屋に泊まることになった。

ベッドをすすめられたが、ソギルはベッドの下に敷布団を敷いてもらった。閑静な住宅地だった。時折猫の鳴き声がきこえてくるだけで、めったに通行人の通る気配さえ感じさせなかった。

「キムさん」

ベッドの上からハンナが声をかけてきた。

「うん?」
「やっぱり一緒に寝たいな。あの時のように」
「嘘だー。一緒に寝たことあるかー」
「あるよ。忘れたの。トイレ事件の日。私は忘れないよ一生」
「あー。でも、あれで一緒に寝たといえるのかな」

トイレ事件。ソギルはすぐ思い出した。

少女を拾って4日目だったろうか。深夜、女の子の甲高い叫び声で眼を覚ました。その後あまりの静けさで一瞬夢だったのだと思ったが、ソファー・ベッドの下で寝ているはずのハンナがいないのに気づいた。

寝ぼけ眼のままドアをそっと開けてみると、薄暗い廊下の隅にある共同トイレの前で、両手を口元にあてがい固まっているのは確かにハンナだった。その隣には隣室の中国人が、いるはずのない女の子と鉢合わせした挙句には叫ばれ、申し訳なさそうに頭をかきながら佇んでいた。

日本語がほとんど理解できない彼に、ソギルはパンヤオパンヤオといって自分の知り合いであることを伝えて、ハンナを部屋へ連れ戻した。幸いに中国人の向かいの部屋の口煩い住人はすでに新聞配達に出かけているらしかった。

「怖かったー」
「そんなに怖かったの」
「だって、トイレの電気を消して振り向いたら、人が立っているんだもの」
「そうか。寝ぼけていたら僕だってびっくりしたかもね。じゃ、これからトイレ行く時は起こしていいよ」
「ほんとに?」
「ほんとに。じゃ、おねんねの続きをやろうか」
「もう眠れそうもないな」
「僕もすっかり眼が覚めちまったな」
「じゃ、お話しでもしてくれませんか」
「何の」
「何でもいいよ」
「例えば?」
「例えば、彼女のこととか、彼女いるんですか」
「それは、秘密だな」
「秘密ということは、いるということでしょう」
「何でそういうことになるの」
「だって、そうだもん」
「そんなもんなの」
「そんなもんですよ。日本人?」
「ううん」
「でしょう?」
「なにが?」
「白状したでしょう、彼女いること」
「ハンナは見かけによらず、ずるいな。きっと狸から仲良ししようって誘われるよ」
「ずるいのはキムさんだよ。彼女いるのにいないふりして」
「……」
「キムさん、こっちに入れば?」
「いやだよ。彼女に怒られるよ」
「キムさんのエッチ。変なこと考えているでしょう。あたし寒いから言っただけなのに」

ソギルはハンナがさりげなくあけてくれたスペースへ控えめにもぐりこんだ。すると、彼女はいきなり彼の左手を広げて脇の下に潜り、海老の形になって自分の左手を彼の胸の上に回した。ソギルは平然を装った。

「あたたかーい。ずっとこうしていたいな」
「ずっと?」
「ずっと」

ハンナはそれからまもなく寝入ってしまった。ソギルは彼女を起こさないように気を使いながら、ぬくもりの中で三時間ほど過ごした。

夜が白んできた。布団からそっと抜け出して朝食の準備にとりかかろうとしたが、土曜日であることに気づき、ハンナが平和そうに眠る布団の中に再び潜り込んだ。そしてそのまま深い眠りについた。

別れはあっけない形で訪れた。ソギルは誰かに揺すられている感触を覚えて眼を覚ました。ハンナだった。彼女は不安げな表情でドアのほうを指差した。

ノックの音に続いて彼の名前を呼んでいる女の声が聞こえた。ボラの声だった。今まで連絡もなしに訪ねてきたことは一度もなかったのでソギルは不思議に思ったが、すぐ彼女との約束事が頭を掠めた。おもむろに起き上がって肌着のままドアに近づき、形ばかりのロックをはずしてドアを開けた。

「オッパ、アジッカジ ジャゴ イッソッソ? 上野 カギロ ヘッチャナ」
(ソギル、まだ寝ていたの?   上野へ行く約束でしょう)

ボラは恨めしそうに言った。

「ミヤン、カンパクヘッソ」
(ごめん。うっかり忘れてた)
「オンジェカジ  ヨギ  セウォドゥルコヤ?」
(いつまでここに立たせておくつもり?)
「入って。でもお客さんいるよ」
「お客さん?」

部屋の中へ足を踏み入れようとした瞬間、かけ布団を胸辺りまで引っかけて不安げにドアのほうを見つめていたハンナと眼が合ったボラは、足を止めたまま固まってしまった。顔色もたちまち真っ青になった。

「アンジャ。ソルミョンハルケ」
(座れよ。説明するから)

「イ  イサン  ムスン  ソルミョンイ  ピリョへ?」
(これ以上何の説明が要るというの)

ソギルにとっては思いもよらない言い返しだった。ボラは間違いなくそう言い放ち、勢いよく飛び出して行った。彼は肌着の上にズボンを引っかけて二階の階段を駆け下りた。ボラの姿を求めて王子方面へと延びている路地を通って大通りに出た。信号待ちをしていた都電がちんちんと鳴らしながら路面に合流するところだった。

ボラは見当たらなかった。反対方面へ行ってみたい気持ちに諦めをつけて部屋に戻ると、ハンナはすぐにでも泣きだしそうな顔をしていた。彼女はくぐもった声で言った。

「ごめんなさい。あたしのせいで…」
「違うよ。ハンナのせいじゃない。大丈夫だからね。今度学校で会ってちゃんと話せば、分かってくれると思うよ。そんなに心の狭い人じゃないから」

そう普段から思っていたことを口にしてはみたものの、正直に確信は持てなかった。ボラは約束の時間には厳しく隠し事を嫌う性格だった。それにしてもあれほど怒りに満ちたボラの表情を、ソギルはまだ眼にしたことがなかったのだ。

「わたしその後、キムさんからの手紙で、彼女と別れたと知って、泣いたわ。本当にキムさんには悪いことしたと思ったから」
「そんなことまで書いたっけ」
「彼女とはもう会わないって、簡潔だったけどね」
「俺こそ悪いことしたな。余計なこと書いて、ハンナにつらい思いさせ」
「ううん、そんなことないよ。キムさんは立派な人だよ」
「立派か」
「だって、神様だもん、キムさんは。ハンナの神様」
「買いかぶりだよハンナ。正直に言うと、僕はこの歳で、まださ迷っているんだよ。今まで何をやっていたのか、将来何がやりたいのか。自分に何ができるのかも分からない。こんなだらしのない神様がどこにいる?」

ベッドからハンナが下りて来た。

「入っていい?」
「いいよ」

それはずるいよと言いたかったソギルの口は、思いとは逆のことを吐き出してしまった。

「でもね。いいの、それはそれで」

ハンナはそういうと布団に潜るなり、トイレ事件の晩とさほど変わらない手順を経て同じ形となった。

「わたし、家出の理由、キムさんに話したことあったかな」
「ないと思う」
「聴いてくれる?」
「うん」

ハンナが東京にその姿を現す一ヶ月前のことだった。親しい友達と二人で新地という中華街を歩いていて、友達の買い物に付き合ってある雑貨店に入った。友達が買い物をしている間、手持ち無沙汰だったハンナは各種の動物をかたどったヘアゴムを手にとって見ては元に戻したりしていた。可愛いとは思ったが、欲しいとも買おうとも思わなかった。

そのうち友達が買い物を終え、勘定を済ませて店から出た。ハンナは店を後にしてからずっと得体の知れぬ違和感に支配されていた。そして帰りのバスの中で違和感の正体は明らかになった。

まるでなにものに突き動かされるように慌てて鞄を開けてみて、ハンナは驚愕した。到底あり得ないことが起きていた。最後に手にしていたウサギ模様のヘアゴムが鞄の中に入っていたのだ。あっけに取られている彼女に、異常を察した友達の恵美がどうしたのかと訊いた。

「あたしのバッグの中にいつの間にかこんなのが入っとる」
「こうたとじゃなかと?」
「ううん、だってあたし、お金はろうてなかもん」
「じゃ、万引きやかね」

恵美は冗談のつもりだったが、ハンナにはその言葉が冗談に響く余裕は持ち合わせていなかった。それに気づいた恵美がすぐ謝った。

「ごめん」

何故お金を払ってもないものが自分の鞄の中に入っているのか、ハンナは必死で考えたが、ついに自分を納得させる状況は思い出せなかった。

別れ際、別に盗むつもりじゃなかったのだからそんなに気にすることはないでしょうと友達はやさしく言ってくれたのだが、ハンナには何の慰めにもならなかった。

家に帰ってからも思案は続いた。しかし思い出そうとすればするほど、見えざるなにものかの強い意志によって拒まれているかのように驚愕の瞬間は遠のくばかりで、とうとう店に入ったこと自体を否定したくなる気持ちにまでなってくる。

思い余って母に告白した。母は最初ちょっと驚いたふうをしたが、彼女の口からも友達とそれほど変わらない意見が出た。

それから数日が経った。正当な代価なしに人のものを持ち出した結果となった出来事は、変な方へ向かって走りだした。ハンナの力ではどうしても思い出せないシーンが店の監視用カメラに録画されていたらしい。店主はセーラー服の特徴から学校を割り出し、学校側に通報した。生活指導の先生らが店に出向き、自分の学校の生徒であることを確認した。そうしてハンナと母親が学校に呼ばれた。彼女と母親の言い分を聞いた学校側は半信半疑しながらも、平素のハンナの生活態度を酌量して厳重注意という処置だけで済ませることに決めた。

噂は学年中にあっという間に広がった。心の中で自分の意識は潔癖であることを主張すればするほど、ハンナは独りぼっちになっていった。周りからは常に陰口をたたかれるように思われ、親しかった友達とも気まずい関係になっていくのを感じた。

本当に万引きする意図があったのなら、心はまだ救われる余地があるような気もした。ところが、意図することもなく意識もしていないのに、人のものを盗った結果となり、その結果という皮相的な形だけで、多くの人は自分という存在を評価し、不潔なものに対する眼で見ている。それはハンナにとって耐えがたい苦痛であった。

彼女は家を出ることにした。家出をすることが潔白を証明する何かの手立てになると思ったわけではないが、自分のことを色眼鏡で見ている周りから遠く離れたかった。

「キムさんは、どう思う?」
「何を?」
「私の万引き」
「僕はね、どちらかというと、わかるような気がする」
「何が?」
「ハンナのその、無意識の中の行動、というか、結果的に万引きになっ たけど、本人は覚えてないこと。そんな経験、まだ僕にはないからなんとも言えないけど、似たようなことはしょっちゅうあるよ。俺去年ね、肺結核で入院して追い出されるまで、ある会社の寮にお世話になっていたけどね。そこの三階の九号室に僕の部屋があるんだ。それでね、不思議なのは、いくら一、二年住み慣れていたとはいってもね、一階の玄関を入ってから三階の自分の部屋までたびたび記憶が飛んじゃうの。なのに、気づいてみると、部屋のドアの前で鍵を操作していたり、あるいは部屋のなかにすでに入っていたりする。一度だけ四〇九号室をあけようとしたこともあったけど、それはそれで違和感というか、何か引っ掛かりがあったからね。でも、やっぱりハンナの事件とはあまり似てないかな」
「話変わるけど、キムさんは、家出したことあるの」
「うん」
「あるの」
「あるよ。昔々、一昔二つも昔。中学三年の時」
「私と同じだね」
「そうだね。ハンナが家出をしたかもしれないと気づいた時、そん時はあまり意識してなかったと思うけど、今思うと、ひょっとしたら昔の自分の姿が重なっていたのかもしれないね」
「そうだったんだ。キムさんはなぜ家出したの」
「なぜ、ねー。自由になりたかったのかな」

ソギルは自分や家族の人生が大きくうねりをあげた日を思い出した。思い出すのに、以前ほどつらくはなくなっていた。

8月18日だった。21日が夏休み明けの月曜日で、その三日前のことになる。家を出る決心を決定的なものにしたのは、その一週間前に起きた出来事だった。
親父の酒乱による暴挙は度を越し、次第にエスカレートして行った。その日はあまり酔ってはいなかったが、そういうときこそ最も警戒すべきであることを、経験則は教えてくれる。

部屋の中で怒声が飛び、親父が暴れだした。ソギルは勇気を出して部屋に入った。二人の間に割って入った隙に、母は外へ飛び出した。ソギルを簡単に振り切って父が母を追いかけた。父の力加減でそれほど酔っていないことがわかった。

彼も父を追ってすぐ部屋を飛び出したが、その姿を探すのに手間取った。やっと二人の行方を把握してたどり着いたときには、事はほぼ済んでいた。助けを求めて駆込んだ隣家の年老いた大家さんとその家族はいなかったらしく、母は父にすぐつかまったようだった。

大家さんの台所にあったはずの練炭バサミが父の手にぎゅっと握り締められ、片方の手では母の首根っこの髪をつかみ、父は怯える母を台所から強引に引きずり出そうとしていた。母の顔はズタズタで鮮血に染まり、見るも無残な姿をさらけ出していた。それでもなお父の怒りはおさまらない様子だった。

その日の夜だったか翌日だったか、それとも数日後だったのか、はっきりはしない。確かなことは、すでに半年前高校を卒業するや家出同然に出て行った姉に続いて、母までもがまた家からいなくなったことだ。ソギルの胸には母も今度ばかりは二度と帰ってくることはないような予感がした。

母の家出はソギルの中でくすぶっていたある気持がはっきりとした形となって止め処なく渦巻く結果にもつながった。彼はいよいよ決心しようとした。そのことがある少し前も実は彼にとっては見過ごしがたい出来事があった。父による焚書が行われたのだ。酔っ払った父は、ソギルの何が癪に障ったのか、真っ昼間に彼の鞄や本棚の教科書などを手当たりしだいに引っぱり出し、燃やしてしまった。

「お前のようなやつはいくら教育させたってしょうがない。学校なんかさっさとやめちまって、稼ぎにでも行け」

というようなことを叫んでいた。

なぜそこまでするのか、ソギルには理解できなかった。一度はともかく、それで二度目だった。その度に彼は惨めな気持ちを味わった。鞄や教科書を実の親に二度も燃やされれば、どんなにお酒の勢いとはいっても酔っ払ったせいだけにする気にはなれなかった。いつも本気でああいうことを考えているのではないかという疑いも生じた。

そうした父とこれからも一緒に暮らしていくことに疑問が芽生え始めていた。その矢先に起こった母への過激な暴力。それによる母の家出は、ソギルにも大きな決断を迫ったのだった。

家出は当時まだ不良気味の少年少女の専売特許と目されていた時代だった。ソギルは家出を決心してから着々と計画を練っていき、チャンスを待った。そしていよいよ決行日はやってきた。

1985年8月18日。誕生日を忘れることはあってもこの日だけは忘れないだろうと、ソギルは今でも思うことがある。自分の人生が大きくうねりをあげた分岐点なのだから。現在と未来のあり方が、この日から始まったような気さえした。

その日、気まぐれな父が久しぶりに豆モヤシの行商に出かけた。ソギルは身支度を始めた。最小限の服を風呂敷に無造作に包み、豚模様のプラスチックの貯金箱をナイフで切り破ると、およそ1万ウォン程度の小銭が束縛から解放され、自由な空気に触れた。

当時地元から遠くまで逃れるには充分な金額だった。前もって覚えておいた列車時刻が30分前になって、至るところに錆ついているぼろぼろの自転車のチェーンが外れないことだけを、祈る気持ちで願いながら家を後にした。

町の中心街の入り口に着いても、まだ安心はできなかった。知り合いには出くわしたくなかった。行きつけの自転車屋の前に、乗ってきた自転車を見つかりやすく停めておき、駅までは中心街を通らずに裏の田んぼの畦道を選んだ。

ソギルは駅に着くや否やソウルまでの切符を買い、幸い定刻に着いてくれた汽車に飛び乗った。汽車が出るまで何度も周りを見渡した。やがて重たい物体が動き出すと、それまでの緊張感がすっと抜け、安堵感やら寂しさやら不安やら希望やら、一言では形容しがたい感情が入り混じって込み上げてきた。

彼はそんな中で、とりあえず当面夢見ていた自由だけは勝ち取れたことが、その時のなにものにも代えがたい救いだったように思った。

声を殺してハンナが泣いていた。ソギルは手の甲で頬を伝う涙の筋をたどった。子どもの肌のような感触だった。

「どうしたの」
「ううん、なんでもない」
「でも不思議なこともあるものだと思ったよ」
「何が?」
「それまで親父を一生許せない存在として考えていたんだ。大人になったら、親父をっつけてやると、幾度となく満月を見上げながら心の中で誓っていたんだ。それなのに、汽車の中で、心に一つの奇怪な誓いを立てたんだ。それは常日頃の心の叫びとは二律背反するものだった。『この家出で僕の人生がどう変わろうと、親のせいにはしない』と、自分に言い聞かせている自分がいたんだ」
「それからどうなったの」
「自由を満喫した」

重苦しい過去が急に生き物となってのしかかってきそうな感覚が起こったので、ソギルはとぼける調子で言った。

「わたし、今思ったけど、キムさんみたいな人が小説は書くべきかもね」
「藪から棒過ぎるよハンナ。そんなの書く想像力はないよ俺にゃ」
「別に想像なんかしなくてもいいと思うけど。ありのまま書けばいいんだよ」
「ありのまま?」
「日本には私小説というジャンルがあるでしょう。自分のこと赤裸々に書いたり、ほら、キムさんがさっき言ってた、柳美里さんとかもその手の作家でしょう」
「赤裸々か。それで? 何の意味があるの」
「意味って?」
「赤裸々に自分のことを書いて、何の意味が?」
「意味って、そうだね。あまり考えたことないけど…、しいて言うなら、共感じゃないかな」
「共感か」

沈黙が訪れた。その中へ鳥のさえずりが入ってくる。ソギルは思わず時間がこのまま止まってくれたらいいと思った。代わりに、心臓でもいい。もしも神様がいるのなら、この時間を神様に頂いた最後のプレゼントとしよう。そして今なら、そのプレゼントを片手に、未練なく恨みなしに生の手綱を放せると、彼はつくづく思った。

「夜が明けたね」
「うーーん」

かすかに反応したその声からは、眠りに落ちていく様子が読み取れ、ハンナはそのまま眠りの深いところまで沈み込んで行った。

胃が少々の違和感を主張しだしたのを除けば、久しぶりにまんじりともせずに迎えた朝は、ソギルにとって不思議なほどに爽快なものだった。言葉では言い尽しそうもないさわやかさが体からも気持ちからも漲る。かつて、これほどまでに爽やかな朝を迎えた日があったのだろうか。ちょっとした理不尽を感じる。

この出会い。あるいは、再会しないままどこかですれ違ったほうがよかったのかもしれない。そもそも彼女は自分のことをどう思っているのだろうか。いよいよ明日、国へ帰ることになっていると聞いたら、ハンナはどう反応するのだろう。今年休学している、しかし休学とは名ばかりのもので、たぶん学校はそのままになると思うと告げると、はたしてハンナは何というだろうか。

〔ハンナの寝ている姿が、あまりにも平和で、起こすのは、世界平和を妨げるような気がしたので、そっと帰ります。もし夕方時間があったら夕飯でも一緒に食べましょう。話もあるし。とりあえず学校終わったら電話下さい。*始まったばかりの授業にはきちんと出るべし。090-9327-9250   電話は今日18時までです。〕

ソギルは赤のペンで走り書きしたメモをテレビの上に残して、ハンナの部屋を出た。

がらんとした部屋を見るなり、力が抜けて疲れがどっと押し寄せてきた。

ソギルは部屋の真ん中に横になり、そのまま眠ってしまった。彼は不思議な夢を見た。しかし夢の中で決して夢でないと意識する自分がいた。二つの空間が現れ、外からその空間の中を代わる代わる覗く者がいた。それは自分らしかった。一方にはハンナがいて、片方の空間には母が見えた。

東京駅へ向かう二人だった。家を出て飛鳥山公園を横切り、王子駅で電車に乗って東京駅に着くまで、二人は一言もしゃべらなかった。新幹線の改札口の前で、ソギルから博多までの切符と1万円札の紙幣を受け取り、やっとハンナの口をついて出た別れの言葉は、「ごめんなさい」だった。すぐにでも泣き出しそうな感情を抑える様子が見て取れた。振り返るハンナに軽く手を振ってやりながら、ハンナ、元気でね、いつかまた会おうね、とソギルは言った。

ハンナとの距離が遠くなるにしたがって、ソギルはもうひとつの空間へ吸い込まれるような感覚にとらわれた。そこには家出をしてひろわれた中華屋での朝食の風景が広がった。手紙を出したのが一〇日前のことで、そのような筋書きが自分を待ち受けているとは、手紙を出した時点では知るよしもなかった。その日も朝七時に起きていつものように開店準備を行い、一〇時が過ぎてやっと遅い朝食にありついた。店の二人のアニキも一緒だった。店をオープンするまでシャッターは三分の一しか開けて置かない。その隙間から通行人の足の部分が見える。ソギルは口にスプーンを運びながらぼんやりと隙間から見える外を眺めていた。次々と足が現れては消え現れては消え、規則的にリズムを刻みながら流れていた。その流れに逆らうかのように一人の足がぴたりと止まった。長めの紺のプリーツスカートをはいていた。店のほうへ向きが変わり、しばらくそのまま立っていた。やがてその人は店のシャッターのほうに近づき、両手をひざに当ててしゃがみ、ソギルらのいる中のほうを覗き込んだ。ソギルはその人と眼が合った。そして一度合った目を離すのは二人ほぼ同時だった。その人はその勢いで一旦帰るしぐさをしてから、また足をとめた。変な人! と思い、ソギルは視線を食卓に戻した。あれ? 見覚えのある顔、そう思った。その人もそう思ったのかもしれない。ソギルが顔をあげて視線をまた外のほうへ向けた時、その人もちょうどもう一度中を覗き込むところだった。再び眼が合った瞬間、二人の眼は発見と驚きに満ちていった。思わず「おふくろだ」という言葉がソギルの口からぽろっと漏れた。わが子だ、母は心の中でそう発したのだろうか。ソギルの突然の呟きに反応した厨房のアニキが彼のほうをチラッと見て、すぐさま彼の視線を追ってきた。ソギルはあまりの驚きにスプーンを持ったまま立ち上がった。おそるおそるシャッターをくぐって入ってきた母は、確信に満ちた表情になったかと思うと、すぐさま悲しみと安堵の交錯する表情へと移行した。どうやってここに、とソギルは二ヶ月ぶりに会った母に言ったつもりだったが、あるいは声になっていなかったのかもしれない。心なしか、黙っている母の眼は充血している上、潤んでいるように映った。二人のアニキは何も訊かずに席をはずしてくれた。二人はしばらく言葉を口にせず、母は声を殺して泣くばかりだった。母は、差出人の欄に書いてある「       」<仁川から>を信じて、決して狭くない仁川を一週間も探し回ったのだと、ソギルは後で聞いた。自分はそんな母親を…。

ソギルはハンナからの電話で眼を覚ました。一二時を回る頃だった。授業をサボってでもすぐ会いに来るという。用事があるからと言って、一八時に巣鴨で会うことにした。

彼はそれから近くに住んでいる大家さんと保証人の家を訪ねてお礼を言い、何人かの知り合いに電話で別れを告げた。

約束の一八時まではまだ時間がかなりあった。駅前の二階のカフェに入ってコーヒーを飲みながら時間をつぶした。三十分前になって約束場所のレストランに入って窓際の席に座った。

ふと外に眼をやると、タクシー乗場が飛び込んできた。そこをはさんだ形で並ぶ駅前の自転車はいつになく整然として秩序感さえ漂わせている。西へ傾く春の陽光が残る力を振り絞って駅前のロータリーに注がれていた。

並ぶ自転車、行き交う人々、ロータリーのタクシー、横断歩道の前に群がり、散る人々。パチンコ屋とその向かいの花屋のお姉さん。いつもと何一つ変わらなさそうな日常の光景が、今は何一つ同じには見えなく、真新しさに満ちているように思われた。

ハンナは二十分も早く現れた。お下げ髪をしていた。

「この店、すぐわかった」
「うん」
「ずいぶん早いね」
「ずいぶん早いわたしより早い人もいる。小奇麗でおしゃれな店ね」
「俺に似合わない店だろう」
「そんなこともないよ」
「この店の落ち着いた雰囲気が」

その時、店員が近づいてきた。

「ハンナ、何にする」
「お勧めは?」
「魚でいいならしまほっけ定食。苦味が許せるなら、ゴーヤーと鶏炒めのあんかけ定食」
「じゃ、長い名前の」
「ゴーヤー、ちょっと苦いんだけど、大丈夫?」
「ゴーヤーぐらい、長崎でも食べるよ」
「そうか。ゴーヤーと鶏炒めを二つ、お願いします」
「ゴーヤーと鶏炒めのあんかけ定食をお二つ、以上でよろしかったでしょうか」
「はい」

店員はオーダーの確認をすると、すぐその場を離れた。

「ハンナ、尋ねたいことと話したいことがあるんだけど、どっちを先にしようか」
「長いほう。ちょっと待て。たずねたい、はなしたい。キムさん、同じだね」

丁寧に指を数えていたハンナは、あたかも重要な発見でもしたように珍しがった。

「その場合は、どうする?」
「じゃ、前のほうから。なあに? 訊きたいことって」
「あのう、俺のことをどう思っているの」
「正直に言っていいの」
「うん」
「好き」
「何でまた俺なんかを?」
「ダメなことなの?」
「歳だって一回りも違うよ」
「その言い分はちょっと変よ。しかもキムさん、自分を卑下してない?」
「そうかな? ハンナのほうこそ、俺のこと買いかぶってない?」
「そんなことないと思うけど」
「俺はハンナが思っているほど、善良な人じゃないんだよ。素直になれなくて、ひねくれていて、勇気もなくて、いやなことは人のせいにしたがる、醜さで凝り固まった人間なんだ。今まで俺は十分すぎるほど自分や人間の醜さを体験してきた。たまたまハンナに出会った時には、それを見せなかっただけなんだ。本性がわかると、ハンナも俺のこと、いやになるよきっと」
「いいもん、そういう人だということ、今わかったから。それでもキムさんはキムさんで、わたしはキムさんのこと、好きなんだから。キムさんは、わたしのこと嫌いなんですか」
「……」
「それで、話したいことって何?」
「俺、明日、帰るんだ」
「帰るって、どこへ?」

「国」
「韓国?」

「うん」
「学校は?」
「休学した。だけど、多分日本に戻ることはないと思う」
「なんで? …それで…」
「仕事も決まってる。知人の計らいで、語学センターで日本語教えることになっている」

その時料理が運ばれてきたが、二人とも手を付けようとしないまま、長く重い沈黙だけが流れた。

その晩ハンナはソギルと一緒にいたがったが、彼は断った。明日空港にも一緒に行きたいと言ったが、ソギルはそれも断った。

「わたし、待つことには慣れているから、また待つもん。キムさんが戻ってくるまで、待ちます」

店を出て別れ際、ハンナはソギルに向かってそう誓った。

小雨が車窓を斜めに縫っている。車内は物静かである。雨が静かさを助長するかのように、海外旅行へ出かけるふうの人々さえ、浮ついた感じはない。列車の軋みだけが、ささやかな揺れと調和しながら、規則的にひびく。

ソギルは窓の外を眺めすごした。過ぎ行くぼやけた町の風景が眼に入った。小雨をキャンバスに過ぎ去ったことごとが断片として次々と思い浮かんできた。

来日して間もない頃、同級生に引越しの運転を頼まれた。日本での運転経験があまりなかったので気が進まなかったが、ついに応じてしまった。そして池袋の複雑で狭い道路で人の車のバック・ミラーをかすってしまった。ほんのわずかペイントがかすり剥けられただけだったが、車の主はやくざで、彼ら特有の物腰で迫ってきた。職業柄ゆえの鋭い嗅覚でソギル達が外国人であることをすぐ見破った彼らは、警官がよくするように外国人登録証やパスポートの提示を要求した。ソギルはその要求に理不尽を覚えた。ちょうどそこへ自転車に乗った警官が通り過ぎるところだった。ソギルが法律に則った事故処理をしようといって警官を呼び止めようとすると、彼らの態度が豹変した。結局、彼らは法外な修理費用を請求しないことを約束し、その日はそれで決着した。そして彼らは約束を守った。

それからまもなく新聞屋で働くことになった。夜半、あまりにも街中を徘徊する人の多いのには驚いた。

新聞配達を一年でやめて次に選んだバイト先は王子にある焼肉屋だった。そこでは三ヶ月ぐらい働いた。あることで営業部長という肩書きの人に誤解され、自分の正当な主張を述べたまでだったが、歯向かったという結果としてとられ、店から追い出された。

次のバイト先も焼肉屋だった。そこは家庭風の料理を出す店で、店自体もあまり大きくはなく、雰囲気は決して悪くなかった。しかし、一見平和そうに見えた店の夫婦の間にはすでに亀裂が生じており、次第に離婚の話にまでエスカレートした。それまで仕事の面ではまじめだった日本人の夫だったが、昼夜を問わず若い女の元へ入り浸りになっているとの噂がなじみ客の口からも出始めていた頃、韓国人の妻はソギルに欲情を向けてきた。ある土砂降りの日の深夜ソギルが帰り支度をしていると、彼女は自宅になっている三階の部屋にソギルを呼んで女をむき出しに迫ってきたのだった。かねてから少し彼女の境遇を同情していたソギルは、もしもボラという存在がいなかったならば、彼女の切ない女としての足掻きに多少のを与えていたのかもしれない。彼は丁重に拒んだが、女はいっそう強く迫った。彼は女のヒステリックなまでの絶叫を後に残し、土砂降りの中へ身をさらした。

琵琶湖のほとりでは、京都在住だというホモのおじさんの巧みな話術にはまり、ホテルへ誘い込まれそうになったこともあった。

十月末の北海道。寒さに震えていた時に手を差し伸べてくれた人は旭川の医大生で、彼は見知らぬソギルを学校の寮の自分の部屋に迎え入れた。

福岡から東京を目指す道中、広島あたりで台風に追われ、車を拾いつないで高速道路をひた走る最中、ドライバーの勘違いによってサービス・エリアで乗り継げずにインターチェンジを出てしまったことがあった。台風で車もほとんど通らなくなった田舎のインターチェンジで、台風の目の真っ只中に入っているつかの間に、救世主のごとく現れて狼狽しているソギルを救ってくれたのは、二人の聾唖者だった。彼らこそソギルにとって、ハンナのいう神様だったのかもしれない。唇を読ませたりして何とか意思疎通は出来た。

盛岡で出会った老人も異彩を放つ。川のほとりにある公園のベンチに座り、旅路のソギルに、人生って何でしょうね、と質問とも独り言ともつかぬ調子で話しかけてきた。自ら体験した戦争やその後の歴史を、あまりにも客観的に語っていた。それから、岩手山を源流に流れてくるらしい透明な雪解け水の中津川のを、眼でやさしくさするように眺め、そのまま安らかに82歳の生涯を閉じた老人。もう二度とそのような清らかな死に様にはめぐり合えないだろうと思う。

列車同士がすれ違う際に切り結ばれる風の音で、回想に思わぬ休憩が訪れた。列車は安定したスピードで田んぼの広がるところを走っていた。雨脚はさらに激しくなって音を立てて窓をたたいている。関東では四月にこれだけの勢いで降る雨も珍しい。晴れていれば見えるはずの田んぼの向こう側の杉林や村落が視野に入ることはなかった。

いったい頭のどこにこれだけの記憶が保存されていたのだろうか。手繰り寄せようとする意図がなくとも、これら断片たちは秩序よく芋づるのように掘り起こされる、その仕組みは果たしてどうなっているのだろうと、ソギルは思った。

そういえば、肩の痛みが明らかな形で自己主張をしだした頃を前後して、もっと不思議な記憶のいたずらに翻弄された。ハンナに再会してからの帰途に襲われた筋状の痛みは、その後もたびたびソギルの中に現れ、ある時期を境にあたかも根を下ろすように安定した疼痛の周期を築いた。肩甲骨部分の強い圧迫感と、その辺を通っている神経を食いちぎらんばかりの痛みでろくに眠れない日々が続き、心の働きはついに正常を逸してきた。

そしてそのころから、さまざまな記憶-ことさら幼少の記憶が頻繁に思い出されるようになったのだ。不安定な精神はそれらを歓迎するはずもないのに、しかし記憶は精神の働きなどまったく介意することなく、気ままにソギルの意識の部屋へ出入りした。

町の病院で診てもらい、総合病院にも行った。病院を変えてみたりもした。だが、訊かれるのも言われるのも判を押したようなものだった。原因不明の症状が続く中、精神も肉体も悲鳴を上げる。八方塞がりのように思われた。

そんな中大学の保健センターからもらった紹介状を手に、すがる気持ちで大学病院の門をたたいた。わりと若い医者だったが、苦悶に満ちた表情のソギルの説明を聴くと、即座に病名らしきものを口走った。それから、はっきりしたことはまだわからないと前提した上で、腫瘍による神経への圧迫の疑いがあると敷衍した。

またMRI撮影をすることになった。そしていよいよ原因不明から一転、原因が判明したのだった。賢そうな若い医者から明確な病名が告げられた瞬間はじめて、ソギルは救われたような気がした。

それから病院に入院し、さまざまな検査を経てまもなく腫瘍の摘出手術を受けた。それですべて片がついたと思った。しかし、実に長かったトンネルから抜け出したのだとほっとしたのも束の間だった。

珍しく風邪で寝込んでしまった。次第に咳がひどくなり、風邪の症状は長引いた。変な予覚が絶えずに付きまとった。体は見る見る衰弱し、心は萎えていくばかりだった。市販の薬を飲んでも医者に処方してもらった風邪薬を飲んでも、咳は止まるどころか肋骨まで響くような咳をし、タバコをやめてからは殆んど出なくなっていた痰まで吐き出すようになった。

冬を越すと、体調はやっと少し落ち着いてきた。しかし無力感はなかなか離れていこうとしなかった。そして昨年の四月の末になってひどい風邪の症状で寝込み、脱水症状まで起こした。生まれて始めて救急車の世話にもなった。咽の炎症に、周期的に繰り返される微熱、ひどい咳と痰と吐き気を伴った。

運び込まれた病院で胸のレントゲンを撮ったが特に異常は見つからなかったらしく、急性咽頭炎やら急性気管支炎やらなにやらといくつかの病名をつけられた。一〇日以上の入院を余儀なくされ、退院後も風邪薬と抗生物質を処方され続けたが、完治することはなかった。退院してからも似たような症状で同じ病院の担当医に六ヶ月間通った。

いよいよ痰に血が混じりだした時、病院を替える決断を下した。肺結核の判明は、肩の病気の時と同じ大学病院の手柄だった。専門医療機関に隔離入院させられた。入院は三ヶ月間にも及んだ。相次いで畳みかけてくる病魔と、これから数知れぬ病気を迎えながら老いていくであろう将来への不安とで、生への自信そのものが大きく揺らぎ、危うく挫けそうになった…。

車内のアナウンスがまもなく空港に到着することを告げている。ソギルはトランクと登山用のリュックに手をかけた。七年前来日する時と何も変わらないように思う。ソギルはその間自分が得たものは何だろうと思った。

午後の空港は込み合っていた。搭乗手続きを済ませるのに、三十分以上も並ばねばならなかった。

和食のレストランで軽めの昼食をとった。出国ゲートへ向う途中、帰国の知らせと明後日になっている面接の打ち合わせを兼ねて、仕事を世話してくれた副院長に電話を入れておこうと思い立った。

明るい声の受付の女の子がでて、副院長を頼むとすぐつないでくれた。

「アンニョンハセヨ。ソギルイムニダ」
(こんにちは。ソギルです)

〈オオ  クレ  ジャル  ジネンニ?   クロチ  アナド  マリヤ、  ヨルラカリョゴ  ヘッソッソ〉
(おー、元気だったか。ちょうど連絡しようとしてたところなんだ)

「クロセヨ?」(そうだったんですか)

〈ソギラ  ミアネソ  オトケ  ハジ?〉(お前には済まないことになった)

「ムスン  イリンデヨ?」(何かあったんですか)
〈タルミ  アニラ…〉(実は…)

そうして電話の向こうの副院長からは、来月から決まっていたP外国語学院でのソギルの日本語講師の件が反故になった内容が伝わった。

学院側の巨額の脱税が摘発されて業務停止中で、数十億ウォンにのぼる追徴金が徴収されることは間違いなく、今後学院運営の見通しがつかない状態だということを、副院長は受話器の方へひそひそと流し込んできた。

副院長に抜擢されたばかりの彼は、最後になって会長と院長の夫婦がまさかそこまでやっているとは知らなかったと、まるで他人事のように付け加えた。

ソギルは来日する直前までその学院でアルバイトをしていた。副院長とはそこで知り合った。当時33歳の若さで課長だった彼は、キリスト教徒の会長とは遠い親戚にあたり、そのコネで入ったのだと噂されていた。いつも物事を簡単に片付けようとする傾向はあったものの、面倒見もよくなかなか気さくな人だった。バレーボールのナショナル・チームで活躍した経験を持つ院長にばれたら殺されるといいつつも、タバコとお酒はやめようとしなかった。アルバイトのなかでもなぜかソギルだけを格別にかまってくれた。そして今回も、修士や博士終了のずらりと並ぶ応募者を押しのけ、修士課程も修了していないソギルを採用してくれることになったのである。

ソギルは逆に副院長を慰め、受話器を下ろしてそこから離れた。その時だった。

〈ナンクルナイサ〉(↓何とかなるよ)

聞き覚えのある声が背後で聞こえた。誰もいなかった。しかしソギルはその声の主にすぐ思い当たった。隔離病棟で出会った沖縄出身のおばあさんの声だった。

〈ナンクルナイサ〉

自分の意思とは関係のないところで起った変化によって、自分の予定していた進路がかたふさがった。自分を操ろうとしているものの存在をかすかに感じる。人生は今自分に一体何を語ろうとしているのだろうか、いったいどんな意味づけをしようとするのだろうか、とソギルは思った。

意味を求めるからつらくなる。でも、意味がないと今の自分は生きていけないような気がする。ここ数年繰り返されているそうした観念は、果たして単なる強迫なのか。答えまでは求めない。せめて、どんなにささやかなものでもいいから、ヒントがほしい。もしも、そこに道があるのなら、求めたい。

ソギルは岐路の前に立たされていることを認識した。そして彼の足はその岐路の一方へ歩き出した。再び電話のほうへもどり、まず唯一の血縁である姉に電話をかけ、まだ帰らないことを告げた。

その後ハンナの携帯にかけた。彼女はすぐ出たが、雑音交じりだった。

「もしもし」
「もしもし」
「キムさん? キムさんでしょう」
「ハンナ」
「今どこ?」
「空港」
「わたし、伝えたいことがあるの。おねがい、今すぐ」
「もしもし?」

急に不通音が聞こえてきた。ソギルは受話器を下ろしてからもう一度かけてみた。つながらなかった。そのまま駅のほうへ向かった。

沖縄のおばあさんの優しそうな笑みが浮かんだ。彼女の口癖〈ナンクルナイサ〉が聞こえる。臨終の瞬間にも言っていたと伝え聞いた。

ソギルは券売機で上野までの切符を買った。エスカレーターでホームのほうへ降りる際かすかな風が吹き起こった。その瞬間、彼はハンナをつよく感じた。切なさがこみ上げてきた。


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