第一話
箱の中のチリン
目が覚めると思わず窓の外を眺めてしまう。すると、朝霧から浮かび上がるヒマラヤがにっこりと笑み、手でつかめそうな低い雲の群れが優雅に舞う。そう、チリンはそんなヒマラヤの国で生まれた女の子なのです。
文字を読み書きできない両親に五人兄弟。次女であるチリンは控えめで無口な子でした。
チリンの国は世界でもっとも貧しい国のひとつです。チリンが幼いころ、山の下に小学校がひとつだけありました。学校には屋根がなく雨が降るといつも休校でした。当然ながら、大学も、病院も、郵便局も、電気も、水道もありませんでした。
家事の手伝いや、家畜の世話がお姉ちゃんの役割だったため、お姉ちゃんは学校に行かせてもらえませんでした。お兄ちゃんと弟たちと混ざってチリンは学校に通っていました。
標高3000メートルの高さに住む彼女の一族は、厳しい気候に負けることはありませんでした。チリンの両親を含む村人たちは早朝から日が暮れるまで働きました。観光客が増える時期になると、チリンの父は登山家の荷物運びの仕事でよく山に出かけました。そして、母は自宅兼用のロッジで客のもてなしをしました。いったん客が帰ると、家族全員が家畜の世話と畑仕事に追われていました。
食べ物は、毎日のようにふかしたジャガイモに唐辛子とバターで作ったソースをつけて食べました。だからでしょうか、肉類が食卓を飾るたびにチリンはご馳走の気分になっていました。
病気になると、いつも近くの祈祷師がやってきました。弟が蛭を飲み込んで下痢をしたときも祈祷師は来ました。人がお腹を痛めて苦しんでいるのに祈祷師は経と踊りを通じて治療をしてくれました。
夏の夜は、水汲みの仕事を終え、チリンはよく表にでて星空を眺めていました。教科書で世界一高い山が自分の国にあると知ったせいか、自分の手が世界の誰よりも星の近くに届くのではないかと、思い切り手を伸ばすこともありました。
そして、雨季になると蛭が急に増え、飼っていた馬の体の擦り傷によく巻きつきました。泥まみれの冷えた裸足で、夕暮れの中、チリンはよく馬の体にくっ付いた蛭を一匹一匹丁寧に取ってあげました。
多くの観光客のカメラがチリンのその姿を写していました。チリンは姉のお下がりでサイズの合わない制服を来た自分の姿を写真に見るのがいつもイヤでした。
勉強好きだったチリンは、家事を手伝った後、ロウソクの薄っすらとした明かりの下で毎日宿題をしました。チリンのお姉ちゃんは、その間、よく赤ん坊だった弟を寝かそうと子守唄を歌っていました。
チリンが熱心に勉強するその姿に感動する外国人客は少なくありませんでした。感動した外国人はチリンに文具を土産にくれました。チリンはいつも恥ずかしそうに彼らのお土産を受け取っていました。それを知ったチリンの兄弟は、外国人客が来ると急いで勉強をしているふりをしました。目の前で子供たちが勉強しているのを見るとチョコレートや文具をくれる客もいました。
そんな中で、毎年山登りに訪れる常連客で一人の先進国から来た中年の人がいました。彼の確かな観察力には兄たちは負けていました。彼は本当に勉強しているのか、ふりをしているのかがすぐ判る人でした。定年退職後山登りをはじめた優しいおじさんでした。彼はチリンの勉強に対する姿勢に感動し、自分の国からたくさんの寄付を集め、チリンが中学校に上がるころに中学校を建ててくれました。そして、チリンが高校に上がるときに高校を建ててくれました。
チリンは学校を卒業し、いくつもの社会的、文化的な禁忌、女性であるための不自由さ、民族の違いや、身分の違いといった壁にぶつかりながらも美しく成長しました。
日頃から兄弟より三倍熱心に勉強をしたチリンは、好奇心豊富な性格もあり、いつも一歩前を目指していました。
しかし、徐々に、その保守的で、いくつもの迷信に巻き込まれて暮らす家族の生活様式に疑問を抱き始めました。そして、心のどこかで、自分の生まれ育った環境を窮屈にさえ感じていました。チリンは自分が箱の中に閉ざされた気がしてなりませんでした。
彼女にとってその箱は、禁忌、複雑、貧困、女性、不自由といった壁で作られた箱のようでした。
そのころはその中年の外国人客は自分の祖国ですっかり老いていました。しかし、彼のチリンの教育を支援する情熱はまだ冷めておらず、チリンを大学に入学させたいという夢を見ていました。
第二話
箱からはみ出したチリン
いつものようにチリンは、目を覚ますとすぐに窓の外を眺めました。空に突き刺さりそうな高い建物と、その合間から淋しそうにのぞいている灰色の狭い空がありました。四面に広がるその風景は見慣れないものでした。そう、チリンはあのおじさんの発展した国に来たのでした。物質的に何もかもがそろっている裕福な箱に入ったのでした。
チリンは見知らぬ社会で怯えることなく次々と新たなものに挑戦していきました。異国の言語を覚え、異国のしきたりを覚え、そして、何よりも苦手だった異国の料理を食べるようになりました。疑問も、疑惑も感じず、日々訪れる「変化」と「違い」に真正面からぶつかりつづけました。
それまでちゃんとした靴一足もはけず、一着の服すら新品のものをもっていなかったチリンは、手元にお金が入るたびに嬉しくてたまりませんでした。チリンは自分のことを、まるで、羽を伸ばして地獄から天国へと飛んでいる鳥のようにさえ思っていました。服装、振る舞いすべてに禁忌が多すぎる母国のことがチリンには臭い箱のように思えてなりませんでした。異国の発展ぶり、豊かさ、裕福さに誘惑され、チリンはその国を理想の国だと感じ始めました。
チリンは、自分の意思よりも時計の指示によって動き回される先進国の日常にも、町中にあり過ぎるネオンサインの光にもすっかりと馴染んでいきました。
そして、24時間営業中のコンビニで夜食を買って食べることも、「ストレス」と「ひきこもり」という言葉も覚えました。家族、親戚、近所付き合いはわずらわしいという気持ちも、プライバシー、自己中心、依存症から癒しという表現まで理解できるようになりました。
知らず知らずにチリンもその病気にかかっていきました。ちょっとしたことにもいらいらし、周りの者をわずらわしく思い始めました。
先進国での夏は、チリンは冷房なしには生きられませんでした。そして、冬は暖房っ子になりました。暗いところは歩けず、お腹がすいたら明日の朝まで待てなくなりました。
物質天国で生活しているチリンは、バスを待っているときでも、電車に乗っているときでも携帯電話でメールのやり取りをすることで忙しくなりました。部屋にいると、一人ぼっちに思える暇もなくパソコンでメル友とチャットをしました。夜は、疲れ果てて眠り、朝は、自力では起きることができず、目覚まし時計を二個も三個もセットするようになりました。
そう、チリンは次第に自力で何もできないけど一人ぼっちになりたい人に変わっていきました。
ある日、チリンは知人の勧めで写真展を見に行きました。途上国の人々を写した写真展でした。幼い頃のチリンに似たような顔をしている子供の姿もありました。いかに途上国の人々は貧しいか、かわいそうかということをアピールしたような展覧会でした。
チリンは小さい頃母国で外国人たちに写真を撮られていたことを思い出しながら、写真展を見回りました。思わず、チリンの目に涙が浮かんできました。それまで故郷を思い出すことがあっても故郷の良さについて考えることはありませんでした。
家に戻ったチリンは布団に身をくるみ、考え込みました。祖国のフラッシュバックが、映画の一コマのように、チリンに付きまとうようになりました。
ある朝、まるで光のようにチリンの中に何かがまぶしく閃きました。物質的な設備が不足しがちな母国の人々の耐えない笑顔、たとえゴムゾウリでも、ボロボロな服装でも目を輝かしてはしゃぐ兄と弟たちの姿を思い出しました。素朴で、自然で、単純な生活様式を思い出しました。何もないけど全てがある母国の良さに気付きました。
そう、チリンは再び自分が箱の中にいるような気分になりました。その箱は、過剰便利、過剰自由、低下した忍耐力、そして孤独感という壁でできた箱でした。チリンは再び息苦しさを感じました。
第三話
箱に戻ったチリン
チリンは帰国することを考えていました。しかし、果たして母国にまだ自分の居場所があるのかしら…チリンは不安に思いながらも帰国しました。
飛行機の小さな窓から気高いヒマラヤ山脈がずらりと見えたときチリンは嬉しくて泣きました。空港を出ると赤土に牛の糞を混ぜた匂いがし、チリンは思わず、懐かしいと思いました。舗装されていない凸凹の道をタクシーでしばらく走ると母国の大都市に到着しました。チリンはほこりにまみれた母国の町、人々、建物を観光客以上の好奇心を持って見回りました。山から下りて迎えに来てくれた父と兄弟は、チリンには、とてもやつれて、弱々しく見えました。先進国の空気を吸ってきたばかりのチリンはすっかりと垢抜けてピカピカしていました。
さっそくチリンは家族と山に戻りました。しかし、待ちくたびれていた母とちゃんと話もできず、疲れ果て倒れてしまいました。明らかに、チリンは体力がなかったのでした。便利な国で我慢することは必要ない生活をしたため、チリンの体の免疫力も怠けてしまったのでした。
幼い頃、重たい水瓶をもって何回も水汲み場を往復したことや、手まで凍ってしまいそうな冷たい水で水浴びをしたことは、いまや、夢で見たような話でした。弱くて栄養の不足したような顔をしている父や兄弟は昔のままの体力と精神力をもっていました。
チリンの帰宅の報を聞いた近所の人は直ちに集まってきました。顔にシワと頭に白髪が増えただけで近所のおじさんもおばさんも幸せそうでした。チリンは冷たい空気を吸いながらも暖かい気持ちになりました。
チリンは自分の教育と経験をその小さな村に注ぎ、自分の身の回りの人々を教育することに専念しようと真剣に考えました。
帰宅して一週間後からチリンは高校の授業観察と、村人の衛生管理に携わりました。チリンは心から楽しい毎日を過ごしました。
しかし、便利な国で生活するのに慣れたことによってチリンは肉体的にも精神的にも脆弱していました。
ちょっとしたことで風邪をひき、下痢をしたり、熱を出したりしました。
しかし、自分の周りの人々の暮らしぶり、忍耐力、精神力に魅了され、それまで逆カルチャーショックを受けていたチリンは次第に故郷に馴染んでいきました。
母親たちは、何人もの子供をかかえながらもちっともいらいらした様子はなく、子供が泣いても、わめいても、一晩中寝られなくても文句ひとつこぼしませんでした。そんな親たちに先進国でよくあった育児虐待という残酷な行為について説明しても、想像もできないだろうとチリンは考えました。
チリンの故郷では、親が赤ん坊の面倒を見るのと同じように、子が老いた親の面倒を見るのも当たり前でした。親、子、兄弟、親戚、友達、近所の人、そして目に見えない神々、誰もがお互いを信じあう、まるで物語のような丸い世界でした。
思いやり、優しさ、暖かさがその社会の象徴的キーワードでした。まさに、何もないのにすべてがある世界でした。
しかし、チリンはこの丸い社会が近い将来この津波のような勢いで向かっている先進国の影響によって滅びることを恐れていました。
第四話
箱の中から悲鳴をあげるチリン
チリンは祖国の発展のためあらゆる夢を見始めました。しかし、現実は、チリンが思うほどチリンの故郷は丸くありませんでした。
チリンの村は、昔と違って学校が増えていました。海外の援助で造られた、村の風景と全く合わない立派な校舎やその屋根も目立っていました。学校の校長に任命された人は、ほとんど、海外からの援助者とうまく交渉できる人物ばかりでした。残りの教員は皆、掛け算すらできない人たちばかりでした。
ある日、村で校舎を造ってくれた外国の団体の歓迎会が行われました。チリンもゲストとして出席しました。
首が動かなくなるぐらい沢山の花輪を首にかけられた団長が貧しい子供たちへの思いを語りました。チリンも感動しました。
歓迎会が済むと団体の何人かが子供たちにお菓子や、おもちゃを配り始めました。すると、子供たちはご飯もなんにも食べてないかのような目をしてお菓子を奪い取ったのでした。その光景をみたチリンは悲しくてたまりませんでしたが、配った側は子供に喜んでもらえたと満足をしていました。チリンにはその光景を見ていられなくなりました。子供たちがみっともなく、そして、お菓子を配っている人はみんな、飢えた動物に餌をあげるような、単なる自己満足をしているように思えたのでした。
チリンは心の中でキャッーと叫びました。
そう、チリンは「貧しいからこそ裕福な人に面倒見てもらえる」とか、「ものが不足しているから豊かな人がものを与えてくれるのが当たり前だ」とか、自力でなにもクリエートしようとしない甘い精神で育っていくあの子供たちの未来を想像して叫んだのでした。そして、物に執着し、人間性を失いつつある学校の教員たちのことを考えて叫びたくなったのでした。
チリンはまたも箱の中にいる気持ちになりました。今度の箱は、争い、奪い合い、従属性、自己満足という壁でできた箱でした。
チリンは次から次と箱に入っていきました。ひとつの箱から出るたびに別の箱が彼女を待っていました。
チリンは箱から出ることは二度とできませんでした。
そして箱の中から、密かに、全ての箱が破れて永遠に青空が広がらないかと悲鳴をあげました。
彼女に出来たのはただそれだけだったのです。
(おわり)