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優秀作品賞

「キになる母」

知 蓮 (イ ジヨン)

略 歴:
1978年2月生 女 韓国
2003年来日。日本語学校を経て、日本大学入学。
現在、文理学部国文学科1年生。

母は、庭で寝ることになっている。星空を天井にして、濃い匂いの芝生を布団にして、土の香り漂う夜風の中で、立ちっぱなしのまま寝る。二階の俺はベッドに横たわる前に当たり前なことのように窓を開ける。すると開けっ放しの窓を通って、母の葉が微風にもみ合う音が聞こえる。柔らかく、美しく、幸せをこめた愛のささやきのように。

六ヶ月前の、真冬の一月の出来事である。

「あり得ない。何って事だ」

俺は魂を奪われた羊の表情で呟いた。一週間前から「肩が痛い、腰が痛い」と正体不明の痛みを感じていた母を病院に連れて行ったのは父だった。その日、俺は昼食を自分で作って食べてから出かけ、午後三時頃に戻ってきたが、家の中はまだ空っぽだった。親は戻っていなかった。兄弟のいない一人っ子なのでしんとした家の玄関を開けることにはもう慣れているはずだが、何故かこの日にはいつもと違う妙な予感がした。いつもこの時間帯に夕食の支度を始める母の姿が見えないせいか、それとも気のせいか、日当たりの良いリビングは、いつもより遥かに暗く感じられていた。

「ただいま」

その時だった。玄関のドアを開けて親が、いや、父と一本の楠木が帰ってきたのは。母の顔を陽刻のように幹に刻んだ、立派な根を持った、葉っぱ豊かな、歩く楠木。母の元の背より少し高い、木のてっぺんが俺の目線と同じ高さにあった。釘付けになった俺を見て、母は少しも普段と変わらない口調で言った。

「あら、ユウキ、早く帰ってきたね」

と言っては、六つに分けられている根の股を動かしながら、すたすたと歩いて台所へ向かうのであった。

「もうこんな時間、急がないと。今日はユウキの好きな蟹鍋だからね」

俺は開いた口も閉ざせず、ぽかんと立ってばかりいた。すると後ろからかさかさと紙の触れ合うような音がした。振り返ると、父が疲れきった顔でソファに座って、新聞を読もうとするところだった。まさに会社から戻ってきた後の、いつもと同じ様子である。

「おい、父さん。一体どういうことなんだ。何で母ちゃんあんな格好してんだよ。変な着ぐるみなんか着て。どっかで祭りでもあったのか?」

父は新聞から目を離さずに、何気ない顔で答えた。

「いや、別に。珍しい病気だそうだ。何という名前だっけ」
「病気? まさか。聞いたこともない」

わかっていた。父は決して無口な人間ではないが、だといって息子に余計な冗談を投げるほど愉快な人柄の性格でもない。この人はマジなことを言っている。俺はもう一度振り向いて母を見た。夢なんかではない。一本の楠木が枝の手に石鍋を持って動いている。着ぐるみなんかではない。本当の木であるに間違いない。言われるまでもなくわかることだが、それにしても一体こんなことがあっていいものか。

数日後の午後、隣の大森さんが遊びにやってきた。大森さんはポケットの中の小銭のようにうるさいおばさんで、俺は好きでも嫌いでもない。母はうれしげな顔で彼女を迎え、枝の手を使って、いつものようにお茶を入れ、台所の食卓を囲んで彼女と話し始めた。大森さんは三枚重ねた皿が同時に割れるような笑い声を上げてから、こう言った。

「立派な楠木。あなた本当に木になってしまったのね」

俺はリビングのソファに横たわったまま、半分転寝しながら二人の会話を聞いていた。口笛のような風が窓ガラスにぶつかる、寒そうな外の風景とは対照的に、母は軽い笑いとともに口を開いた。

「昔から、楠木が一番好きだったんです。運が良かったんですよ。知られてない病気なのでおかしく見えるかもしれないけど、そう珍しい病気でもないそうです。お医者さんが言ってました」

腰が痛くなってソファの上で寝返りを打った。俺の好きな煎茶の匂いを切り裂くような破裂音をたてながら、大森さんはお菓子をかじった。

「へぇ、じゃその他の患者さんたちはどうなってるの? みんなあなたみたいに楠木になるってわけ?」

うちの母はお茶が大好きで、木になったお陰でお茶が飲めなくなったらどうすればいいのかと、初日少し引っかかっていたが、幸いなことにまだ人間の食べ物でよろしいそうだ。

「いいえ、決まってないらしいです。竹になる人もいれば、椿か薔薇になる人もいますから」

母が答えると、大森さんは一段とトーンの高い声で、楽しそうな口調で言った。

「どうせならあなたも、かわいい花になったら良かったのに」
「いいえ、さっき言ったように楠木が好きですから」
「ま、地味な奥様だから。で、ご主人の反応は?」

苦笑いに決まっているじゃないか、と俺は考えた。しかし母は、

「手を握ってくれました」

と答えた。五本の枝になってしまった母の手を、父が握ってくれたそうだ。また腰が痛くなってきて寝返りたかったが、動かなかった。母の声は庭を通り過ぎる緑の風に乗って聞こえてくる。

「何も言わなかったのに、どうしてあんなに心強く感じられたんでしょう」

ご機嫌な時に自分の髪を撫でるのは母の癖である。うっとりとまた眠ろうとすると、楠木の葉の音がかさかさとした。癖である。大森さんの名前とは全く関係なく、突然巨大な森の中に身を潜めているような気分になってきた。何回か瞬きをした。それからすぐ仮眠に浸った。

春の始まりを目の前に控えた三月のある日、母と一緒に買い物に出た。物心ついてから今まで、お使いをさせられたことはあっても、本格的に大型スーパーへお供して出かけるのは始めてのことである。微風に薄い日差しの午後、日が暮れるまでは二時間あまりが残っている。

「何で俺がこんなとこまで来なきゃいけねえんだよ。格好悪いし、つまんねえし。これって主婦の仕事だろう。おい、母ちゃん、聞いてんのか」

慎みと遠慮の国、日本でよかったと思った。売り場の中を悠々と歩く楠木に、あからさまな関心を表す人間がそう多くはいない。もちろんこの二ヶ月間、町の大体の人は母のことに慣れてきたはずだ。少しざわめかれることぐらいはもう覚悟の上だ。それに、母はずうずうしい。

「だって、荷物が持てないからしょうがないじゃない。この頃葉っぱがだんだん多くなってきて体が重くなってるのよ」
「ならそんな格好で表に出ることやめなよ。たぶんこの店始まって以来だろう。こんな変わったお客さん。かなり迷惑だと思うけど」

母はくすっと笑った。

「だって、自分で買わないと気がすまないもの」

玉子に豆腐、れんこん、ホウレンソウなどがいっぱい詰まっているビニール袋を両手に持った俺と母がスーパーを出ると、日が暮れる直前になっていた。空の向こうに夕焼けが濃い。ちょうど今頃から絶頂を走り出す桜並木の街路を歩くと、その赤空の下で薄紅色の桜の花がひらひらと宙を飛ぶ。それらはまた母の緑にさらさら落ちてくる。美しい。

「共食いじゃねえのか」

小さいカップとスプーンを握った手の枝を熱心に動かしながら、母はおいしそうにハーゲンダッツのグリーンティを食べている。俺の言葉に母は何気ない顔で言った。

「失礼ね。普通にアイスを食べてるだけなのに」
「緑茶アイスの原料って植物だろう」
「ま、遊ばれても仕方ないから、思う存分どうぞ」
「別にからかってんじゃねえけど」
「はいはい、わかりました。ごちそうさまです」

幹の中心に見える母の横顔をじっと見ていた俺は、再び空に目をそらした。相変わらず赤い。俺を見つめているのは、天空の心。隣で歩いているのは、木の母。ふと思った。母と一緒にいると、どこか遠くに行きたくなる。

「あのさ、母ちゃん。いつか北海道に行かない?」
「そうね。一度も行ったことないわね。北海道って」
「おい、母ちゃん、いつもこの時間に買い物してんのか?」
「そうよ。毎日決まってる」
「いつもこの道を通って帰るのか?」
「当たり前でしょう。一番近道だし。春にはこんなに桜がきれいだし」
「そっか」
「そうよ」

俺は無職だ。引きこもりだと言っても過言ではない。世間でいうフリーターでもない。ずばり何もしない人間で、何にもなりたがる気持ちのない人間でもある。親のすねかじりといっても良い。事実だから。というわけでほとんどの日常を家で過ごしている。なので母のことなら何でも知っているはずだ。

「知らなかったな」

独り言のように俺がつぶやくと、母は不思議そうに俺の顔を見つめた。動くたびにかさかさとまた木の葉の音がする。母は毎日空を見ていたのだ。俺は毎日壁を見ていたのだ。

五月になってから一週間ぐらい経った、ある夜のことである。

二階の自分の部屋でぐっすりと眠っていた俺は、深夜二時頃、ふと目覚めた。風邪気味で激しくのどが渇いた。水分を補給したほうがいいと思って、一階の台所へ足を運んだ。静まり返った真夜中である。冷蔵庫からミネラルウオーターを出してごくごく飲んだ。からだ全体が冷えてしまいそうな感じで、気持ちいい。

「あれ?」

庭が丸見えるリビングの大きい窓ガラス越しに、動いている一本の楠木が目に止まった。母である。夕陽に映った子供の微笑みのような桃色の桜に囲まれ、さくっと芝生のてっぺんを踏みながら、母はゆっくりと庭の奥に向けて歩いている。水筒を冷蔵庫の中に戻した俺は、玄関を開けて庭に出た。すがすがしい夜の風が体を通っては、どこかへ消えてゆく。何回も何回も消えてゆく。

「何やってんだよ、おい」

ちょうど二階の俺の部屋の窓を正面に、母は立ち止まっていた。いきなり現れた俺を見つけて、少し驚いたようだ。

「あら、あなたこそこんな時間に何をやってるのよ。風邪ひいちゃうわよ」
「子ども扱いはよせよ。馬鹿は風邪なんかひかないもんだから。それより何だ。眠れないのか。びっくりしたよ」

多少あわてていた母は、すると小さいため息をついた。それから瞳を下げて自分の足元を見下ろした。

「ごめんね、ユウキ」

涼しい風が、もう一度俺を、そして母を通り過ぎては、花びらの群れになって舞い散る。無表情で小揺ぎだにしなく立って、俺は枯葉のような乾燥した声で言った。

「何よ、突拍子もなく謝って」

母は微笑んだ。

「親は、自分の子供を見ていると謝りたくなるの。しかもいきなり木になってしまった母なんて、おっきな罪だわ」
「俺、何も文句言ってないけど」
「だって、このままだとあなたの結婚式にも出れなくなってしまう。そうなると困るでしょう」

何故か俺は母の前にしゃがんだ。そしてゆらゆらと母の葉が揺れる様子を見上げた。

「結婚なんか、あり得るもんか」

俺は苦笑った。

「だめよ。そんなこと言っちゃ。寂しいじゃない」
「自信ないもん。夫になり父になり、めんどくさいし」

母は雨の日の朝に見かけたアサガオのように微笑んだ。そして、

「桜が、凄いね」

と言った。それからしばらく二人とも何も言わなかった。草の香りが芳しかった。そしてふと思いついた。地球は幸せな土の塊である。

「で、いつまでこんなとこに立っているつもりなんだよ。早く戻って寝たほうがいいんじゃないか」

母は頭をかるく振った。

「庭で寝るわ」
「むちゃ言うなよ」
「ごめんね、ユウキ。言おうとしたけど」
「何を?」
「お母さん、もう家の中では寝られなくなったの。土の上に立ったまま寝ないといけないの」

俺は驚愕して立ち上がった。

「えっ、それってどういう意味? 冗談だろう」

否認されるまでもなくわかっていた。父のように、母はこんなつまらない冗談なんか言わない。俺は握っていたこぶしに力を入れながら聞いた。

「何で?だってまだ人間じゃん」
「やがて木になりきるわ。あなたには、本当にごめんなさい」
「うそ」
「・・・・・・」
「マジで?」
「ごめんね。母として失格だわ」
「木になりきるって、どうなるっつうの?」

母は静かに微笑んだ。そして俺の目を見つめながら、落ち着いた口調で答えた。

「死んじゃうの」

胸の奥で、正体不明の熱い何かが激しく渦巻いた。

それから何日か経った、ある日の午後、俺の彼女が家に遊びにやってきた。彼女は高校を卒業してからすぐ就職して社会人になり、今は小さい貿易会社で雑用として働いている。俺に比べると立派な人間であるに違いない。

「楠木って、もっとでっかいもんじゃないの?」

俺が横たわっている長いソファの向こうに座って、母が入れてくれたお茶をすすりながら彼女は、首をかしげた。そして俺に答えを迫る。

「ね、ユウキ」

故意ではないが、俺はそっけなく返した。

「さあ、わかんねえ」

今日もベランダの窓ガラス越しにゆっくりと動いている庭の母を、俺は眺めていた。母はピンクの薔薇に水をやっている。木が花に水をやる場面なんかがどうしてあり得るのだろう。彼女の握っている茶碗の中の緑茶の香りと、淀んでいるリビングの空気が微妙にゆがんでいた。彼女はいつものように笑っているし、俺はその笑顔が好きだが、何故かこの日にはそれさえむかついた。母は楽しそうな表情でのろのろ庭の芝生をぶらついていた。俺は言い出した。

「あのさ」

彼女が答える。

「うん」
「お前さ、庭って好き?」
「えっ、何それ。いきなり」
「好き?」
「嫌いじゃないけど、好きってわけでも」
「そっか。じゃだめじゃん」
「何が?」
「いや、別に。何でもねえ」

自分でも意味が分からない言葉が、彼女にわかるはずがない。話しながら俺はずっと母を見つめていた。外は春の朝で、母の葉がゆらゆら揺れている風の日である。吹いているのか、また微風が。考えてみると不思議なことだ。母を通して風が見える。形が見えても、音が聞こえてもいないのに。風というのはもともと肌で感じるものなのに。俺がじっと母を眺めていると、彼女がまた口を開いた。

「ね、お母さん、これからどうなるの?」

心配そうな顔の彼女に聞かれた。

「さあ。」

何故か居心地が良くなかった。眠りたかった。

「あのままずっと生きていなきゃいけないの?」

めんどくさい。うるさい。本当に知りたくて聞いているのか。

「だからわかんねえって」
「冷たい息子だね。無関心なの?」
「だって俺にできることが何もねえんだよ」
「やらないんじゃなく、できないの?」

冷めたお茶を飲み干してから、彼女は言った。俺は「どういう意味?」と聞いているような目で彼女の顔をじっと見つめた。 笑みの柔らかい女だが。

「何でも、始めないと始まらないよ。それに…」

少し間をおいてから、彼女は言い足した。

「始めなくても終わりは来るの。だから人生って怖いの。」

そぶりは見せなかったが、胸の奥からどきっとする音がした。心の時計はいつの間にか止まっていたのか。昨夜から起きている静かな胸騒ぎは、もしかしたらその時計の秒針が動き出そうとするシグナルなのかもしれない。いや、間違いない。しかし、だといって俺に何ができるというのか。木の母に再び視線を移しながら、俺は考えた。美しい不治の病。母は死ぬ。そして俺は神様ではない。

それからまるで全てが停止してしまったかのように、何もない空っぽの一ヶ月あまりが経った。相変わらず母をほっといている父と、ぼやけた頭の俺と、呼吸を妨害する蒸し暑さが共存する、夏が始まった。

「来週から梅雨だって。台風も来るそうだよ」

藍色でいっぱいな、星が光る地球の天井を見上げながら俺は言った。

「だから今週は毎日こんなに暑いのかな」

手に持っていた青りんごを一口かじり、噛みながら言った。すっぱい。けど甘い。

「おい、母ちゃん、聞いてんのか」

今日も立ちっぱなしで庭で寝る母は、何も言わず虚空を眺めてばかりいた。楠木になってから半年が経つ。

「聞いてるわ。」

間をおき、ゆっくりと母は声を出した。

「何考え込んでんの。ぼっとして」
「ごめんね。少しのどが渇いたの」
「じゃ、水でも飲む?」

母は力なくうなずいた。最近母は毎日こういう状態で、さすがに夏にもなると植物は他の季節よりずっと辛くなるようだ。俺はりんごを口にしたまま、母専用のバケツに水をいっぱい入れて持ってきた。根あたりに注ぐと、水は土を黒く染めながら吸い込まれてしまう。そして母にしみる。

「どう? いけそう?」

今度は微笑んでうなずく母である。うなずく度にまた木の葉の群れがさらさらと動く。夏を迎えてそれらは一段と茂っている。

「助かったわ。ありがとね、ユウキ」

何か照れくさい。俺はバケツを逆さまにしてその上に腰を下ろした。そして勢いよくまた一口りんごをかじった。静まった庭中にそのしゃきっとする音が響き渡った。

「あのね、母ちゃん」

俺が呼ぶと、母は条件反射のように微笑む。

「なあに? ユウキ」

りんごは食べるほどすっぱくなる。俺は苦笑した。

「情けない息子だと思ってるんだろう」
「ううん、全然よ。何でそう思うの?」
「決まってるじゃん。高校卒業してからもう十年も経つっていうのに、ちゃんとした職もないし、だといって熱く反抗なんかしてるわけでもないし、親のすねばっかりかじってて、未来の見えないやつだから、誰にだって、自分にだってわかってるもん。バカだってことぐらい」

母は首を振った。りんごの味はすっぱさをすぎて渋くなった。いや、というよりやや苦い。どうしてだろう、今晩は風も吹いていない。うっとうしい空気は遠い国にあるピラミッドの石のように重く感じる。母はいつの間にかでっかい楠木になってきて、幹に刻まれている顔がなおさら小さく見える。母は静かに口を開き、柔らかい声で俺にこういうことを言った。

「死んでもいいと思ったの。この子のためなら」

うつむいていた俺は、ゆっくりと顔を上げた。母は言い続けた。

「あなたが生まれた時、その出会いって、この世の全てがひっくり返るような嬉しさに、声を上げて泣いたの」
「そんな可愛かった息子がこんなバカになるとは思えなかったんだろう。無理してフォローしなくていいよ。だってわかってるって。嫌われてもしょうがない」

母は月の湖に映った銀河のように輝く眼差しで、温和な声で言った。

「死ぬほど、死ぬまで、好きだわ」

心臓の中でガラスのような何かがガラガラと崩れた。母に告られた。恋人の彼女に告ったのは俺の方だった。同じ告白、人間の愛の告白。でもどことなく違う気がする。あの日彼女はうれしい顔で俺に抱かれた。が、今ここにいる俺は、悲しい。胸がぎゅっと痛くなってきて何かを言いたかったが、母の顔を見ると、唇は固くくっついて離れなかった。何かくすぐったい。同時に激しく切ない。やっと開けた口からは、意味のない一言だけが漏れた。

「母ちゃんも、馬鹿だな」

突然強風が吹いた。夜空を見上げると眩しいほど月は明るく、灰色の雲が薄いフイルムのような形象になってその月がさを通り過ぎて走る。ものすごい速さであった。何故か涙が出そうになった。部屋に戻ってベッドに横たわり、窓を開けた。母の音が聞こえてくる。とても心地良くて胸がドキドキする。この日から俺は毎晩窓を開けっぱなしにすることにした。母を聞いて眠るのだ。子供の頃のように。

翌朝、母は死んだ。薔薇のそばに立っている楠木はもう動かない。しゃべらない。微笑んでくれない。涙は出なかった。その代わり巨大な木の形をした陰の中に座って、母のように夕焼けの濃い空を見上げながら、俺は考えた。母は最初から木であったのだ、と。その懐の中で俺も父も呼吸をし、愛してあげなくても条件無しで愛してくれる、世の中で唯一な存在であり、まさに緑の木のような美しい生き物であったのだ。

木になり、気になり、その肩を包んであげなかったのは俺だけであった。どうして何も言ってあげなかったのだろう。

「俺も、大好きだよ」

一時女であった母に、一時母であった楠木に俺はささやいた。するとようやく熱い涙がこぼれた。ずっと愛していたのだ。幸せになってほしかったのだ。静かに光る星の風は今夜も変わりなく俺を通り過ぎ、母の葉が揺らぐ。俺はまた青りんごを食べながら母の前に座って夜空を見上げる。すっぱい。けど甘い。俺の肩に手を触れ、父はこんなことを言った。

「病院に行った時には、植物化癌末期で、もう手遅れだった。でもお金さえ払えば、死ぬ日まで人間でいることはできるとお医者さんは言った。しかしその手術を、お母さんは拒否したんだ。引き留められなかった。彼女に最も幸せな死に方だと考えたからだ。だから悔いはない。」

今更だが、俺は昔から知っていた。母は楠木より薔薇の方が好きだった。どうして大森さんに嘘をついたのか、今の俺にはまだわからない。が、いつかわかる日が来るだろう。俺は神様ではないが、息子だから。そして俺は今晩も、窓を開けて母を聞きながら眠る。悲しみは残さない。母は明日も、あさっても、これからもずっとあの庭に生きているから。母よ、いつまでもそのままで。

(おわり)


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