前置き
花曇りの夕暮れ、西の空が夕焼けで赤く染まった。私は人の流れを通り抜けて駅から出ると、微風が少し湿気を帯びて頬を軽く撫でてくる。思わず一つ大きく息を吸って、家に向かって街を歩く。
突然、「アニキ…」と後ろから一声を掛けてくる。私が振り返って探そうとした途端、一人の男が自転車に乗って、私の目の前にきれいな弧線を引いて敏捷に止まる。
見ると、私のルームメートのバジオだ。「お、お前や。今日、バイトはないか?」
「いや、今行く。実は話があるんやけど」と私ににこにこする。
「何の話、帰ってからではいけへんか?」
「うん、いけへん。実は、とも子が今週の日曜日、もしアニキが予定なかったら三人で一緒にお花見をするって、桜はもうすぐ終るんやんか」
「あ、そうか。特にないけど、二人の邪魔をしたくないんや」と冗談めかすと、バジオは生真面目に「いや、そんなことはない。逆に、とも子はアニキが私たちのような無教養な人と一緒したくないかもしれないって」
「ほんまに?」と私は笑い出して、言った。「じゃ、そこまで言われたら、行かないと失礼なことになっちゃうやろう」
「来るんやなぁ。よかった」と、バジオも任務を果たしたように笑う。
「おい、仕事やろう、急がないと遅刻するぞ」と彼を促す。
「うん、じゃな」とバジオは素早く人の流れを通り抜け、忽ち街角に消える。
「変わったな、あいつ」と呟きながら、バジオと知り合った頃のことを思い出す。
バジオ
約一年前、バイト先でバジオと知り合った。
バジオは本名が林茂根で、背丈は高くないけど、中肉中背でとても丈夫そうに見える。顔立ちは十人並みだが、目は深く窪んでいつも憂鬱な目つきをしている。あまりしゃべらず、照れ屋に見える人なのだが、仕事はてきぱきこなしていた。
私は入ったばかりなので、仕事をこなせなかったが、彼がよく手伝ってくれて、本当に助かった。それで、二人はだんだん仲良くなって、喋るときに私のほうもあまり遠慮しなくなった。
彼は今年26歳、私より四歳下で、日本に来たのは四年前。ある日、世間話をしているうちに、「君福建省から来たんじゃたいへんやろ?」と聞いたら、彼の顔にやや不自然な表情が現れてくる。それで、私は話をそらすために、「そう言えば、俺の父も福建省の出身で、俺も半分福建人とも言えるんやで」「ほんまに、福建のどこ?」と少し吃驚して、目を見張った。「蒲田県…」と言ったら、「あっ、俺は福清、隣や。方言も似てるし、話せるの?」と前の気まずそうな表情を一掃した。私は少しばつが悪くて、「いや、そこまで、できへんやけど。と言っても、俺らは名字が同じ『林』やから、五百年前同じ家族じゃないか。それで、俺、お前のアニキやで」と冗談半分に言った。「なるほど。これからアニキと呼んでもええか?」と茂根が生真面目に言った。そこまできたら、私も真面目にならざるを得ず、「よし、これからお前は俺の弟となるんや」
だが、そのあとすぐ、「正直に言って、茂根っていう名前が本当にダサいな。そして、皆に林兄ちゃんと林さんというふうに区別されるのは面倒臭いやんか?」とまた冗談口調に立ち戻って、ロベルト・バッジオは知ってるかと聞いてみたら、茂根がちょっと戸惑い顔に頭を振った。「イタリアのすごく有名なサッカーのスター選手で、それに特に女性にもてる。何故か知ってる? 彼は地中海のようなブルー、憂鬱な目を持っているから。お前の目は地中海のようなブルーではないけど、憂鬱は十分。いっそ、バジオと呼んだらええやろう。呼びやすいし、親しく感じ取れるし、どう?」と念を押すと、茂根は素直に微笑んで、言った。「俺は別にどうでもええから、アニキの好きにしてください」それから、互いにアニキとバジオと呼んできた。
当時、私はルームメートを探すのに困っていた。もとのルームメートは進学のために東京に引越ししたので、二人で払う家賃を一人で払うことになってしまった。もし自分も引越しするとしたら、具合よい家を見つけるのが難しいし、引越しの費用と手数も大変かかるだろう。 そこで、改めて別のルームメートを探すことにした。勿論、私にとってバジオはいい人選だが、一回誘いを出してみたら、家賃が高いという理由で断られた。
私がバジオをあきらめたころに、チャンスが訪れてきた。
それから半月ぐらい後、バイト先から家に帰ったばかりのところで、バジオから電話が来た。「アニキ、ちょっと今、家に行ってもええか」と声が焦っているように聞こえた。先程バイト先で別れた時何も言わなかったのに、ちょっと変だと思ったのだが、うんと答えた。
約三十分後、バジオが着いた。彼のそわそわした様子から、何かあったかと聞いてみた。バジオはちょっと落ち着いてから言い出した。「さっき、家に着いたところ、パトカーがアパートの外に止まってるのを見たんや。怖くて近づかなかったけど、手錠をはめられたルームメートの二人をはっきりと見た。多分警察は彼らを引き連れて、家を捜査しに来たと思う」私が異様な目つきで見つめたのに気づいたのか、俯いて、「実は、俺らは不法滞在をやっとって、でも、本当に悪いこと何もしてへんのや。しかも絶対せえへん」と、バジオは信じてくれと言わんばかりに私を見つめた。
私は「お前なら、信じるわ」とゆっくり頷いた。バジオはそれを聞いて、ほっと息をもらして、「前、アニキに言わなくて、悪かった。 今、家に帰れなくなったんで、ちょっと二、三日でも泊めてもらえるかなと思って…」
「別に、かまへん」と私はあっさり答えた。 もともと、何となくバジオが不法滞在じゃないかというような気がしていたが、不法滞在者が必ず悪いことをしたりするとは思わない。特にバジオは温厚な人柄で、私はかなり好感を持っている。「けど、その後どうする?」と聞いたら、バジオは咄嗟に、「心配しないで、ほかの家を見つけたらすぐ出るから、絶対迷惑をかけへん」
私は思わず笑い出して、「そうではない。俺が言いたいのは、ここに一緒に住んだらどうやって。ほら、トイレ、お風呂もついてるし、バイト先にも近いし、交通も便利やし、お前の家より百倍以上快適やろう。それに、家賃は半々で、それ以外は俺払う。お前のアニキやからな」。バジオは少し躊躇った後、「じゃ、そうしよう。ただ、家賃以外の代金は俺も半分払う」
バジオと一緒に住んでから、私は楽になった。バジオは飲食店のバイトを除き、作業服を洗うのを専門にするランドリー工場でもう一つのバイトをしている。 週に五回で、午前十一時から午後四時まで。だが、昼間家にいる限り、部屋をきちんと片付けてくれるので、前と比べたら、室内は一新された。
バジオには私を驚かせるところがまだたくさんある。タバコやお酒などを口にしようともしないし、最もすごいところは、一週間、十日ぐらい同じ料理を食べても飽きることはなさそうだということだ。例えば、キャベツが一番安いとしたら、彼は一回に三、四個買ってきて、それを食べ切るまでほかの野菜を全く食べない。バジオと一緒に住むといっても、顔を合わせる時はさほど多くもない。 二人で一緒に食事することはもっと少ない。だから、一緒にご飯を食べる限り、私はできるだけ魚や、ソーセージなどを買って料理を作る。だが、バジオはそれに全く触れず、自分の買ったやつばかり口にする。時に、私の強引に近い態度によって僅かに食べる。私はそれを見るに見かねて、バジオに聞いてみた。
「お前はな、タバコも酒も口にせえへんし、遊ぶどころか、食費さえそれほど切り詰めて、バイトと寝ることだけを繰り返すだけで生活の楽しさがどこにある?」
私の不思議げな顔を見て、バジオは素直に笑いながら、「あんまり深く考えたことがないから、とにかくもう慣れてきた」
正直言えば、バジオの考え方に私はなかなか賛成し得なかった。 更に、彼を見くびる時さえもあった。けれども、その二ヵ月後に起きた事件は、それを変えた。
八月の下旬頃、台風が日本に上陸する前夜、風がだんだん強くなってきて、海の匂いさえ嗅げるように覚えた。バジオはシフトによって休んだが、私がバイト先から帰った時家にいなかった。 普段は、バジオが家にこもってどこへも行かないので、私にはちょっと怪しく思えてきた。
二時ごろ、バジオは一人の男を連れて、帰って来た。私は露骨に不愉快な顔をして彼らを見つめた。バジオは慌ててその男を私に紹介し始めて、「彼は俺の同郷の林有根で、先日日本に来て、未だ住む所がないので、暫くここに泊めてくれたら…」と、私をちらっと見て言い続けて、「事前に、アニキに言わなくて、本当に悪かった。 ただ、住む所を見つけたらすぐ出るから…」と私の許しを期待する。
バジオの「日本に来る」というのは、「密入国」と同じ意味をもつことが分かっている。私は視線を林有根という男に向けた。小柄で、年はバジオと同じぐらい、一見したところ真面目そうな人である。事情がここまできたら、許すほかはないと思って頷いた。
人間関係と言えば、少なくとも中国人にとって、血縁関係を除いたら、最も重要なのは同郷のような地縁関係と言うべきものだろう。とりわけ、見知らぬ環境或は窮地で身を置いたら、そういう関係が常に驚くべき力を発揮する。四日後、バジオの言った通り、ほかの同郷の手助けによって、林有根は住む所が見つかってここから出て行った。
だが、天に不測の風雲あり。僅か三週間後、林有根が警察に捕まえられたことをバジオから聞いた。林有根は夜のバイトを終えてから家に帰る途中、警察に止められて、慌てて逃げようとしたが逃げられなかったらしい。「あいつは運が本当に悪かった、たった一か月やわ。また借金二百万円を負って、このまま強制送還されたら、あいつはどうするんや」とバジオは鬱々として私に呟いた。
「お前らがそんなことするなんて、なかなか納得できへん。ここでびくびくしながら日を過ごすより、自分の家で働いたらええやんか」とバジオに言い聞かせた。
「やっぱりアニキは、俺らのことを分かってくれないんや」とバジオは溜息をついた。「確かに、ここで一日中びくびくとしたり、日本人にバカにされたり、でも、俺らはその前にどんな生活をしたかを知ってる? 日本に来る前に、都会で出稼ぎをやっとったんや。一年中骨折って働いても、せいぜい四、五千元ぐらいしか儲けられなかった。このぐらいの金の支払いでも、常に雇い主から延び延びにされたり、更にお金を持って逃げられたケースも少なくなかった。 それに、都会の人々も俺らを白い目で見たりして、例えばアニキは本気で俺らを高く買うの?」
「おい、よせよ。そんな余計な話」と、私はちょっと気まずくなってきたが、心の中では認めざる得なかった。「ごめん、言い過ぎて。だって、ここで一生懸命に働いたら、一ヶ月で儲けた金は国で一年かかっても儲けられへんやろ。どうせ他人にバカにされるんやから、ここに来て一か八かやってみようと、俺らはそう思ってる」
それを聞いたら、私は二の句が継げなくなった。バジオが財布から数枚の一万円札を出して一つの封筒に入れた。「それは、何にする」とバジオに聞いてみたら、「あいつはほんまに可哀相やから、俺は他の友達と三人で一人十万円ずつ出してあいつの家に寄付するつもり。力になれへんやけど、気持ちだけ…」
「けど、十万円と言っても、お前にも大金やんか」
バジオは微かな苦笑いをして、何にも言わずに家を出た。
とも子
仲間たちが相次いで捕まえられたことで、バジオは意気沮喪したように見え、行動も小心翼翼として、バイトと買物以外、外出しないようになった。
だが、このような生活は長く続かなかった。吹いてきた風を肌寒く感じてきた頃、バジオにあるささやかな変化が起きた。日ごろ外見にあまり気を配らぬバジオが、よく鏡にむかって、髪を梳いたり、身拵えしたりするようになった。更に、携帯メールが何か分からない彼は、それの使い方を教えることを私に頼んだ。
「お前は最近、変。まさか彼女ができたじゃないか」と冗談半分で聞いてみたら、バジオは「いや、違う」と言いながら顔を赤く染めた。「おい、白状しなかったら、教えないぞ。お前らの間ではメールを使われへんやろ」と、彼に返答を迫った。
「彼女じゃないけど、実は一ヶ月前に一人の女性の新人パートさんが入ってきた。たまたま彼女を手伝ったんで、だんだん仲良くなってきた」と、しかたなしにバジオは私に告げた。
「そうやったら教える。ただ、字が読めないと、絶対うまくいかへんやで」
「そうか。じゃ、もし日本語を学ぼうとしたら教えてくれへん?」
「うん、ここに初級の本があるから、まず自習して、分からないところがあったら聞いて」
それから、バジオは日本語の勉強に夢中になった。夜の仕事が終って家に帰ったら、私の睡眠を邪魔しないため、トイレで学び続けた。正直に言えば、バジオが日本語の勉強を長く続けると思わなかったが、一ヶ月ぐらい過ぎても、バジオの学習意欲は冷める気配がちっとも見えなかった。それで、私はその女の子がどんな人か知りたくなってきた。だが、僅か一週間後、それが叶おうとは思っていなかった。
その日の夕暮方、大学から帰って家に入ったら、バジオは右手から肘まで包帯を巻いたままベッドに横たわっていて、傍に一人の女性が座っていた。私を見ると彼女はすぐ立ち上がった。年齢は二十代後半、やや小柄で均整の取れた体つき、顔の輪郭が柔らかくて、目鼻立ちもすっきりと整い、一見かなり優しそうな人である。
バジオもベッドから起きて、「あっ、彼は林衛東で、私のアニキです」と彼女に紹介してから、私に向かって、「こちらはとも子です、同じ工場で、えーと、私の…」と決まり悪そうな顔をしていた。私は頭を下げて、「はじめまして、よろしく」。とも子もきちんとお辞儀をしたが、何も言わなかった。そして、バジオに向かってドアと自分の腕時計を指差した。バジオは「はい、ありがとう。気をつけて」と頷いた。それで、とも子はもう一度私に礼をして去った。バジオは私の疑惑の表情を見て、彼女は十三歳の時ひどい病気にかかって、治ったが発声できなくなった、と私に説明してくれた。
「なるほど。彼女のことはともかく、手はどうしたん」とバジオの手をさしながら聞いた。
「今日、工場で働いていた時、急に水蒸気のパイプが破裂した。中の水蒸気が吹き出て手にやけどをした。病院に行って手当てをして、もう大丈夫。後一週間ぐらいで治るやろう」と気楽げな口調で言った。
「そんなに速いのはありえへん。仕事はどうなる。暫くできへんやろう」
「向こうは治ったら仕事を続けてもええって」
「それはよかった。けど、夜のバイトはやばい。俺、店長さんに言ってみる。医療費はどう?」
「自分で…」
「なに、仕事中でけがをしたやろう。何で出してくれへん。強く言わんとアカンで」
「俺が不法滞在をしとることを忘れたか。向こうが俺をくびにしても、俺も何も言えへんやろう」と苦笑しながら言った。
私は思わず溜息をついた。そして、自分の健康保険証を出して、「これを使って」とバジオに渡そうとした。だが、バジオは「これアカン。ばれたらどうする。俺にとってこのぐらいのけがは何でもない。体は丈夫やから」と拒んだ。
幸いなことに、バジオのやけどは一ヶ月ぐらいで無事に治った。それはとも子のお陰だとも言える。その間に、とも子は仕事を終えたら、必ずここに来てバジオの面倒を見るからだ。それにバジオに日本語ばかりでなく、私のパソコンを借りてネットサーフィンのやり方まで教えた。一つ新しく多彩な世界がバジオの目の前に現れてきた。その時のバジオは寧ろ自分のやけどが永遠に治らなくなるように願っていたに違いない。
バジオは一度とも子のことを私に話した。彼女は幼い頃父母が亡くなって、まったくお婆さんの手ひとつで育てられた。高校を卒業した後、故郷を後にしてひとりで大阪に来て、ずっとフリーターとして、さまざまな仕事をしてきた。「すごいなあ」と私は彼女に好感を持つようになった。だが、どことなく彼女の静かな眼差しの中に、ある見当をつけ難いものが潜んでいるような気がした。
バジオはやけどが全快した後、工場の仕事に戻って、そして、同郷の紹介により、まもなく夜のバイトも見つかった。それで、バジオは相変わらずあくせく働いていたが、前と違うようになったのは、彼の顔に常に笑みを湛えていることだった。
こいつ、ほんまに変わったな、と私はとりとめのない思いに耽っていた。急に携帯が鳴る。電話に出てみると、またバジオ。「アニキ、カメラ持ってる?」。
「持ってる。何を考えとんねん、はよ行け」と電話を切って、私は「人間万事塞翁が馬」ということわざを頭に思い浮かべていた。
花見
日曜日の午前、予定通りに出発する前にバジオは紺色の真新しい背広に着替えて、ネクタイもきちんと締めた。それを見て、私は半ば冗談半ば真面目に、「おい、なにするつもり? 面接か、就職か?」
バジオはこの質問に困惑したように私を見る。「これ」と私は言いながら、彼の袖を引く。「これ? これは花見のために昨日わざわざ買ってきたものや」
私は首を振って、息をつく。「花見なんて遊びやろ、もっと軽やかな服を、ほら、俺のようにジャケット、ジーンズを着た方がええやんか。お前の今の格好じゃあ、とも子に笑われるぞ。」
それをきくと、バジオが落ち着かなくなって、「ほかの服がぼろぼろだけど、どうする?」
「もうええ、お前の気持ちは、どうにか彼女も分かってくれるやろう。それに、彼女に笑われるにしても、必ずしも悪いことじゃない。さぁ、心配しないで、行こう」
それでもなおバジオはおちおちしていられない。途中、ビール、唐揚げとお菓子などを買って、公園に着いた時、淡黄色のセーターに象牙色のジャケットを着たとも子は入り口のところで、手に一つの紙袋を持って待っていた。私たちを見て、手招きをしながら寄ってくる。
近づくと、バジオの格好を見てとも子は思わずぷっと吹き出してしまう。バジオは顔を赤く染めて、一層きまりが悪くなってきたようだ。私がひじで彼をちょっと突いて、「ほら、笑ってるやろう?」。そして、とも子に向かって、「実はな、バジオはとも子さんを笑わせるためにわざとそれを着たんです」とも子が納得したようにバジオに頷く。それで、バジオは気分を取り直そうとして、「はやく入ろう。 遅かったら席を取れないぞ」と先に公園に入る。
四月の頭頃、大阪城公園の桜は既に満開で、青白、純白、薄いピンク色それぞれに咲き誇っている。道の両側の桜並木は、枝を差し交わして天蓋をつくっていて、あたかも花のトンネルのように見える。その中に入ると、すれすれに頭上にまで撓うのは桜の枝、地に散り敷いているのは桜の花弁、目にするものはすべて桜、私達は完全にこの桜の世界に溶け込んでしまう。
道を逸らし、奥の一本の桜木の下に、とも子が一枚のシートを敷き、寿司といくつかの漬物を出して並べる。「これ、全部とも子さんの手作りですか?」と聞くと、彼女は頷く。
「きれい、美味しいそう。じゃ、一個食べてみましょう」と寿司を取ろうとして手を出した途端、バジオは「アニキ、ちょっと待って。まず乾杯しよう」「じゃ、何のために?」バジオはちょっと考えて、「今日のような集まりはめったにないので、このために」「よし、またとも子さんの寿司のために、乾杯!」
「うまい、本当にうまい。寿司も、漬物も。プロの作ったものみたいですよ」と私は食べながら言った。バジオも「そう、そう」と相槌を打つ。とも子がきまりが悪そうに手を振る。私は更に考える振りをして、「こうならどうですかね。まず、皆がそれぞれ自分の仕事をやめます。そして、私たちの店を出しましょう。とも子さんは寿司と漬物、バジオは中華、私はボーイをします。どうです?」と言うと、三人共に笑い出す。そして、とも子がバジオに手真似をする。バジオは「とも子はアニキの素晴らしい発想のために乾杯するって」と私に言った。「嘘だろう、お前手話が分かる?」バジオが得意げな顔をして私に向って笑う。「とも子さん、当たってますか?」と聞いたら、とも子が微笑んで頷く。またバジオに手話をする。「とも子は俺の頭がいいからって」と言いながら、幸せに溢れた眼差しをとも子に送る。とも子の目も潤ってきてバジオの視線に応える。
一種の何とも言いようのない感動が私の胸に湧き立ってくる。美には抵抗できないと言われたが、愛にも抵抗できない。これまで、とも子がバジオを愛する、或は好きになることに対して、彼女が身障者であるにも関わらず、どうにも信じられなかった。だが、今、私はそれを信じざる得ない。あの伝説にある赤い糸が現実にも本当に存在するかもしれぬと思えてくる。
そして、私は上半身を伸ばし、「よし、発想のために、それに愛のために、乾杯!」
少し落ち着いて、あたりを見渡す。近い所の桜木の下で、ダンボールや毛布の上に座り込み、ワッワッと声を轟かせて酒盛り中の仕事仲間たち、バーベキューをする家族、ちょっと離れたところの黄色に青色が混じる芝生でバドミントンを打ち合う若いカップル、フリスビーを投げ合う親子、いずれもみなの顔が楽しく、幸せな表情に満ち溢れている。
「青空、麗らかな日差し、穏やかな風、美味しいもの、恋人、友達、人生にこんな一日さえあれば満足すべきでしょう」と私は、ビールを一気に飲み干す。バジオもそれに染まったように、「本当にきれい。 今は、アルバイトや、家賃や、悩みなど一切が別の世界のもののような気がしてる。天国が本当にあるならば、今のここや」
とも子も何かを考えているようだ。それで、私は「とも子さんはどう思いますか」と聞いてみる。彼女は少し躊躇って、紙に「どちらがもっと真実的なものか」と書く。私はちょっと吃驚した。彼女がこんなに深く考えているとは思わなかったから。三人は共にその考えに耽り、しばらく沈黙する。
微風が吹いてきて、それに追われた花弁が徐々に舞い落ちてくる。私は素早くカメラをとり、二人に向って、「おい、こっちを向いて、チーズ言って…、はい、オーケー」とシャッターを押した。レンズの中、落花を浴びた二人は指が「V」字の形を作り、顔が寄り添って悦びに輝いている。
「あ、きれい、美しい…、時間を止めて欲しいなぁ」と思わず嘆く。バジオも「そう、そう、こんな時間、俺も…」とも子が何か考えているように目を凝らして落花を見ている。「とも子、何を考えてるの?」とバジオに聞かれると、沈思から覚めたように頭を擡げて手話をする。「とも子は、えーと、一つ…、何かを思い出した…」とバジオは困った顔で訳に努めようとしたが、うまくいかないらしい。それで、とも子が紙に「花も心ありければ廿日の齢をたもちけり」と書く。少し間をおいて、また、「美しいものは常に短いですもの」と書く。
「なるほど。人生も同じものですよね。中国にもこんな詩もあります。 『年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず』 人生は儚いもんなぁ」
「とも子とアニキが言ったこと、あんまり分からないけど。でも、来年になると、春はまた来る、桜もまた咲くと分かってる。あの歌の歌ってるように…」と、バジオは真盛りの桜を見ながら、「春去春回来_花_花会再__只要_愿意_只要_愿意__梦_向_的心海」と口ずさんでいる。興奮しすぎてか、顔がやや紅潮している。
とも子もそれに揺り動かされたように、私と一緒に拍手する。「すごい、おまえの歌を歌うのを初めて聴いたよ、うまいなぁ」バジオは照れ隠しのように俯く。
「とも子さん、この歌のメロディはきっと知ってるでしょうね?」 彼女は頷いて、紙に「森進一」と「花」と書いてくれる。「そうです。中国ではメロディをそのままにして、歌詞をつくり直しました。さっき歌った歌詞の意味は日本語に訳したら、大体こうなるでしょう。春は去り行ってもまた来たる、花も凋んでもまた咲く。君が許しさえすれば、心に夢を送り込む」
とも子は聞いてからバジオに眼差しを向けて頷く。
「とも子とアニキのおかけで、今日は、俺の生まれて以来最高の一日」と目の中に幸せな光が煌いている。
「じゃ、この最高の日のため、それに来年また一緒に。さぁ、乾杯!」と言いながら、私は酒を高く挙げる。「はい、また来年、乾杯!」とバジオがついてきて、期待するような眼差しがとも子に向かう。とも子も杯を挙げるのだが、些かな不安が目に浮かんで忽ちに消える。
一陣の風が頭上を掠めて、花びらが舞い散ってくる 夜、私は夢を見た。
墨に塗りこまれた空に、太陽は血の塊のような真っ赤な円盤に変貌する。突 然、幅狭く一筋の白い気体が勢いよく太陽を貫。 中国の古書で、それは「白虹貫日」と称して、凶の兆しである。 どうしてこんな怪しい夢を見たのか、わけがわからない。気のせいか。
失踪
花見をして以来、バジオの顔つきは五月の空のように晴れ晴れとしている。六月の下旬、既に梅雨に入ったが、雨の日が少ない。後半になってもずっと曇っているものの、雨が降らず、空気は水を絞り出すほど湿っぽくて息苦しい。
この日、私はバイトが休みなので、友だちに会いに家を出かけようとしたところに、バジオから電話がきた。電話に出ると、「アニキ、とも子は、とも子は…」とバジオのじれったく聞こえた声が伝わってくる。
「落ち着いて。とも子が、何?」
「とも子は、彼女がなくなった」
「なに、なくなったってどういうこと」
「昨日と今日はとも子が工場に来なかった。何回もメールを送っても彼女は返事をしなかった。さっき仕事終ったところで、係長にきいてみたら、もうやめたって。」
「なに、やめたって。」私も吃驚して、「ほんまに?いまどこ」
「わからへん」
「いいや、違う。お前いまどこって」
「バイト先に行く途中」
「それじゃ、とりあえず仕事をやって、家に帰った後ゆっくり話して。大したことじゃないから、心配はいらん、分かった?」
電話を切って、思わずあの怪しい夢を思い出して、「まさか、それか?」
夜の二時ごろ、バジオは帰って来て、何も言わずベッドに倒れる。「おい、大丈夫かい?」と彼に聞いてみたが、返事がない。「彼女の家を知ってるやろう」と確かめると、彼が頷く。「明日工場も休みやろう」と聞くと、彼がまた頷く。「それじゃ、明日一緒に彼女の家に行ってみよ」今回は、バジオは「うん」と答えてくれた。
朝、目が覚めたとき、バジオはすでに起きて、窓際にぽかんと立っていて、いつの間にか降ってきた雨をじっと見ている。充血した目は彼が寝苦しい一夜を過ごしたことを語っているようだ。時計を見たら、八時まえ。私は思わず溜息をついて、バジオの肩先を軽く叩く。「さぁ、行こう」
彼女の家に着いて、目に入ったのは二人の大工が部屋をリフォームしていることである。「室の番号を間違えへんやろう?」と彼に確かめる。彼は呆然と立ち竦んで、答えない。やむを得ず、彼を引き摺って管理人室までに行って、管理人さんに聞いてみると、彼女が既に解約して三日前に引越ししたことが分かった。
家に帰ると、しばらく無言のままに雨を見る。部屋の中に重苦しい空気が篭っている。それを打ち破るために、バジオに声をかける。「おい、大丈夫。彼女は多分急用ができて、話す間もなくて行ったんじゃないかな。しばらくしたら帰ってくるかも知れへん。心配しなくてもええ」と言った途端、悔やみ始める。こんな下手な慰めの言葉は自分でさえ信じないから。
「アニキ」と彼が見知らぬ人を見るように私を見つめて、「俺、子供じゃない。アニキは本気でそう思ってるの?」
私はちょっとうろたえて、彼の視線をそらした。確かに、彼女の一連の整然とした行動から見れば、明らかにだいぶ前に計画したものに違いない。
「何故こんなことになっちゃったんや。もし俺を厭うんやったら、直接、言ってくれたらええのに、どうして…」と彼の泣き声が部屋の中に漂っている。
私も同じような疑問を抱えているのだが、糸口は些かもつかめない。
こうして、彼女は蒸発したように何の痕跡も残すことなくバジオの生活からすっかり消え去った。
一週間後、「謝り」をタイトルとした一通のメールが私のメールボックスに届いた。
林さんへ
とも子です。黙って立ち去って本当に申し訳ありませんでした。 実は、私は子供の時から、小説家に憧れていましたが、いくら頑張っていても、乏しい人生の経験からは創作の霊感を生み出せませんでした。いまだになかなかいい作品ができないのです。けれども、いつか自分の小説も社会に認められたいという願いが一刻も消え去ったことがありません。それを叶えるためになら何でもやります。
昨年、九月のある日、スーパーであなた達に出っくわしました。創作の霊感のないことに苦しんでいる私には、それは譬えようもなく天啓のように思われました。それで、家まであなた達を尾行しました。その後、一ヶ月の調べによって、バジオは不法滞在らしいことが分かりました。私は学生時代にボランティアをしたとき、手話を学んだことがありましたので、一つのアイデアが頭に閃いてきました。障害者である一人の女と、不法滞在である一人の男と、完全に異なる世界にいる二人、民族、言語、文化の垣を越えて恋をする、と小説に書くとすれば、いい作品になるはずでしょう。しかしながら、その頃あなた達の生活がいささかも分かりませんでした。経験したことが一度もなく、勝手に空想して書いた小説は生命力がありません。それに、作者自身の感情を入れない作品も決して読者の心を揺り動かさないと思います。天の賜物を見逃してはいけません。願いを叶えるために、身をもって一度体験しようと決意して、唖者を装ってあなた達の世界に踏み込んできました。私の行為はあなた達、特にバジオを深く傷つけました。いくら何を言っても許してもらえないと分かっています。そこで、初めは黙って去ったのですが、なかなか安らぎを得られませんでした。繰り返し考えた上で、あなたに告げることにしました。時というものは苦痛を癒す良薬でありますが、あなたの諭しを加えれば、彼はきっとはやくもとの生活に立ち戻れるのでしょう。あなた達は本当にいい人です。二人とも幸せになりますように心からお祈りをします。 なお、私が申し上げたことはバジオに告げるかどうかあなた次第ですが、告げないほうがいいだろうと思います。
それを読み終わると、あっけにとられて、しばらく頭が空っぽになってしまう。
「ひどい、卑劣。こんなことがあるもんか。信じられへんわ」という一種の愚弄されたあとの怒りが胸に燃えてくる。そして、初めは彼女を罵倒しようとしていろんなあくどい言葉をメールに書き込んで彼女に送るつもりだったが、頭が冷えたあと考えてみると、いくら彼女をひどく罵っても何も役に立たないだろうと思った。そこで、怒りを抑えざる得なくなって、もう一度メールを書き直して彼女に送る。
「メールを拝見しました。これまで、あなたがこんなに素晴らしい演技力を持っていることに気づかなかったこと、本当に失礼しました。それに、あれほど苦心惨憺してきたあなたに脱帽します。けれども、今時に至り、ただのごめんなさいだけて済ませることだと思っていますか。あなたが引き起こしたことは、あなたしか解決できません」
だが、一週間経っても返事がこなかった。
この間、バジオは家に帰ると、ものも言わずに横たわって、ぽかんと天井を見ている。一日中、顔つきが雲に覆われるようで、嘗て春の太陽のようにきらびやかに輝いた笑みもすっかり消えた。初めはバジオもほかの失恋した人と同じように時の経つにつれて悲しみが薄くなっていくだろうと思ったが、三週間が過ぎて回復した気配がちっとも見えない。やはり彼を慰めたほうがいいと思えてくる。
いつものように、バジオは家に帰って直ちにベッドに横たわる。
「お帰り。疲れたやろ」と彼に声をかけてみる。バジオは一瞥をくれた以外、何の反応もしない。「おい、話す力さえなくなったか。また彼女のことを思ってる?」 依然として反応をしてくれない。思わず頭に来たが、それを抑えるため、少し間をおいて、「実はな、あれは大したことはじゃない、旧いものが行かへんと、新しいものが来へんやろ。ええ女の子がたくさんおるから、また作ってもええやんか」 それを聞いたバジオは私を白目でちらっと睨んで、思い切って顔を背ける。
私はもう我慢できなくなって、口ぶりも激しくなる。「お前らのことはな、恋って言えるかどうかまず別にして、こんな仏頂面を誰に見せるつもりかい。それに、失恋しても、それが何だと言うんや。この世の中、失恋した人が幾らでもおる。もし皆がお前のようにしたら、この世の中、半分以上の人が死んでしまう。しっかりせいよ」
バジオはそれを聞いたら、一旦私を見つめて、再び視線を天井に向ける。「死ぬ。そうや。俺のような人なんて…」とぽつりと呟く。私はふと言い過ぎたような気がするのだが、適切な言葉を見つけられず、「ごめんな、言いすぎやけど。ただお前に、もっと現実的に考えて欲しい」と、話を終える。
月見
知らないうちに、九月に入った。秋といっても、残暑はまた猛威を振り回している。
バジオは相変わらず悲しみに浸っているようである。彼にとっては、もしとも子と一緒にいた日々が雲の上に飛翔するとすれば、現在の生活は再び地に、いや、奈落の底に落ち込んでしまったとも言えるのだろう。
それを目にする私も苛立ってくる。一年余り一緒に住んでいて、バジオの気性が大体わかるからだ。外見から見れば、バジオはかなり大人しいのだが、一途に思い込むタイプで、一旦決意すると、とことんまでやる。今のような状態を続けていたら何が起こるのか分からない。もう一度、彼を説得せねばならぬ。だが、いい考えを出さないと、また失敗するに違いない。迷っているうちに、つい夜空を見上げると、ほぼ満月に近い月が中天に輝いている。
「そうだ、それだ」。と呟いた。一つの考えが頭に浮かんでくる。 二日後、ちょうど中国の中秋節である。夜、お酒を買ってきて、電気をつけないのままにバジオの帰るのを待つ。
二時ごろ、ドアが開く音がして、バジオの姿が現れる。
「お帰り」と私は声をかける。
「あれ、アニキ。まだ寝てへん? 何で電気をつけへん?」と、バジオはちょっと吃驚して部屋に入ってくる。
私は一本の缶ビールを渡して、「今日は中秋節って知ってるかい?」
「そうか、アニキが言わなかったら、忘れちゃう」
「やろう。さぁ、はよ座れ」 少し飲んでから、「ほら、今夜の月、きれいやろう。佳節に逢う毎に更に親を想い。今、多分お前の父母もお前のことを思ってるやろう」
「いや」
彼は少し間をおいて囁く。
「俺、実は子供の時成績よかったけど、家が貧しくて、父はおまえ長男やから家を何か手伝ってくれって。それで、十四歳の時、中退させられ、畑で働くことになった。十八歳になって、出稼ぎをした。 全国のいろいろなところに行ったり、様々なことをしたりしたけど、なかなか儲からなかった。頼りにならない、腑抜けな奴だと父に叱られたんや。彼らは俺の金だけを思ってる」と初めて自分の家のことを私に話した。前はこんなに膝を合わせて話し合ったことがなかったから。
「くそっ、誤算だったか」と思いながら、気分を振り払おうとして、「おまえ考えすぎ、実は、親は皆……」
「アニキ、ちょっときいてええか」と私の話をさえぎって、「俺たちって何のために生きてるの?」と。
「おい、こんな質問を出したら、哲学者みたい」
「別に、聞くだけ、アニキなんでも知ってるから」
「いや、そんなことはない。けど、何のためにといったら、やっぱり人によって違う。家族のため、お金のため、信仰のためなど、いろいろあるけど。ただ、命がな かったら、何もできへんやろう」
「そうなら、命よりもっと大切なものはないの?」
「いや、あることはあるけれど、ただ…」
「やっぱりあるんや。もしそのものがなくなったら、生き甲斐もなくなるというわけやろう」と、月を見上げたままに呟く。声がちいさいのに、私が聞いたら雷が鳴るようで、思わず手が震えて、ビールも少しこぼれた。
「おい、馬鹿なことを考えるな。人間はな、この一生涯にすべてのことは意のままになるわけがない。何で人間は泣きながら生まれてくるって分かるか。それは天は苦痛というものも生活の一部分だと我々に教えとんねん。苦痛に耐えて、更にそれを乗り越えて立派な人になるところに生き甲斐がある。ちょっとした挫折で落胆するなんて男じゃないんやで」
「だって、俺そんな強い人間じゃない。俺のような能無しに何ができるか?」 目尻に微かに涙が滲んでいる。
「何を言ってんねん。おまえ、前から様々の辛いことをなめたり、苦労したりして、それ本当に偉いと思うんや。しっかりして。おまえ絶対できる」
バジオは胸の奥に潜んでいる苦痛に触れられそうに、「肉体の苦痛なんて耐えられる。けど、けど…」声が少し震えて、言えなくなる。
「お前の気持ちは多少分かってる。けど、恋っていうものは生活のすべてじゃない。ただの一人の女のため、むやみに馬鹿なことをやる意味はどこにあるねん?」
彼が私をしばらく見て、頭を横に振りながら、「俺にとって、彼女はただの一人の女じゃない。アニキは分かってくれていないんや」と呟いた。
「なに、わかってないんやって、」と思わずに声が高くなって、「あいつは…」
「アニキ、とも子のことにこんな言葉は二度と使うな」とバジオが思い切って私にわめいた。全く別人のように見える。
私は目を見張って愕然とした。バジオは私にこんな口ぶりで話したことは一度もなかったからだ。
バジオはちょっと気を静めてから、「ごめん、こんなに荒れて。とも子がどんな人であっても、何かをしたとしても、俺は彼女を恨まへん。アニキの言いたいことは分かる。俺のことは俺が決める。「もう何も言わないで下さい」と、いつもより更に静かに、穏やかに話すところに、容易ならぬ決断が含まれているようである。
それで、二人とも無言のままに月を眺める。部屋は静まり返って、月の柔らかい明かりだけが人間の哀愁を誘い出そうとして、静かに流れている。
秋愁
何時の間にか、夏の緑が秋の赤と黄色に取り替えられ、街を歩くと、ショーウインドーには秋めいた服装も増えてきた。
「秋」の下に「心」をつけたら「愁」になる。つまり、秋の心は愁いである。バジオの目から洩らした愁いと淋しさも濃くなってくる。
私は何回もバジオと再び話し合おうとしたが、何を言ったらいいかわからなくてあきらめた。
バジオには、彼の生きる意欲を呼び戻せる人は一人しかいない。
やむをえず、私はとも子がバジオを助けてくれる可能性はゼロに近いものだと分かっているにもかかわらず、奇跡の訪れるのを待つような気持ちで、再び彼女にメールを送る。
「バジオは依然として意気消沈しています。私は手を尽くして言い聞かせましたが、一向に効き目がありませんでした。彼が求めるものは、私には与えられませんから。あなたは彼に一つの窓を開けて、彼の嘗て見たことのない美しい風景を見せつけました。現在、無情にその窓を閉めたのもあなたです。そこで、彼を救う人はあなたしかありません。彼は一徹な人で、現在の状況のままに続けていくのなら、何が起こるのが分かりません。何とかしてお願いします」
だが、奇跡は起こらなかった。
初詣
重苦しい雰囲気の中に、お正月を迎えた。
除夜の鐘をきいた後、私はバジオを引き摺って近所の神社に行く。多分早過ぎて、初詣をする人があまりいない。私が日本人の二拍手一礼を真似て参拝するのだが、後ろに立っているバジオは全くそれをしようともせず、夜空を見仰ぐ。
「おい、お前何をやってんねん? はやくせよ」
バジオは冷淡な目で神棚を見て、「神様がほんまに存在するの? 存在するにしても、きっと俺を嫌うやろう」
「そんなに真剣に考えるまでもない。気持ちだけで」と彼を促す。バジオは私をしばらく見て、ゆっくりと首を振りながら、「俺の求めるものはもう無くなった」と目が潤んでくる。
私はそれを聞いたら、胸がぎゅうとしめつけられるように覚える。しばらく考えた上、「バジオ、俺、どう言ったらええか分からないけど。黒いサングラスをかけた人は、当然目に入るものはすべて黒いやろう。けど、一旦それを外すと、五色に煌く、全く新たな世界が見えてくるやろう。世界はそのまま変わってへん、違うように見えるのはお前の心持が変わったに過ぎないから」
「俺は、それを一度に外したんや、アニキ。けど…」
「いや、外したのじゃなくて、外された。今回はお前自身の力で外して欲しい」
「できへん、如何してもできへんわ。今は、俺は自分が大きな岩を背負ってトンネルを這ってるように感じとる。その岩は重くて、俺を押さえつけてる。俺は息継ぎさえできへん…」とバジオは言いながら、ふと両手で胸を押さえて、息遣いも荒くなってくる。「それに、その長い、長いトンネルは果てが無い、真っ暗で、怖い。もういややわ」とバジオはまるで底なしの淵に落ち込んでしまったようである。 顔も恐怖と絶望に苦しめられて歪んでくる。
私はぱっとバジオの肩口を掴んで振りながら、「落ち着け。もうちょっと辛抱して、それを踏み堪えたら、幸せな時が必ずくる。信じてくれ」
バジオは私の手を振り切って、首を振りながら叫ぶ。「もういやや。俺にとってあれは重すぎる。もうくたくたで、休みたい、眠りたいだけやわ。いつまでも、いつまでも……」
もし、人間は一生の中一度は獣のように泣く時があるとすれば、この時がそうであるのだろうと思い、目頭が熱くなる。最後の努力は失敗に終った。
思わず溜息をついて月を見上げる。冬の月は冷えびえとして青白い光を放ちながら高いコンクリートの森に囲まれた街の空に浮かんでいる。
別れ
万物が春風で甦る。大地が緑に彩られ、小鳥が梢の上に囀る。春の色は明るい。春の音は歓楽的である。春は生気が溢れる季節である。けれども、バジオはそれ一切を拒絶し、自分を暗い憂愁の世界に閉ざしている。
二月に入ってから、バジオはもう一つ新聞配達のバイトをやり始めた。こうして、彼は一日四時間しか寝られなくなった。体が日に日に痩せていく彼は、私に鮭のことを思い出させる。川をさかのぼり、上流の砂底に産卵して後、死ぬ。今、バジオはその時の来るのを待っているようである。更に私は、何となくその時がだんだん近付いてくるかような気がする。
四月の二日、私はバジオのベッドの下に一枚の紙を見かけた。それを拾い上げて見ると、彼が家に三百万円を送金した領収書である。ふと一種の不吉な予感にとらわれ、それは終に来るだろうと自分に言い聞かせる。夜、寝る前に、バジオは「アニキ、明日空けてくれるかな。一緒に外で飯を食おうと思って」といつものように静かに言って、瞳が穏やかな光を放っている。それは一つの決意をした上の平静さである。私は何にも言わず頷く。
翌日の夕方、バジオはあの一回しか身につけなかった背広を着て、私と家を出かけて大阪城公園に向かう。ちょうど一年前のこの日、私達三人がそこでお花見をした。今、桜は相変わらず咲き乱れて、花見する人々も依然として満面に笑みを湛えている。但し、嘗て私たちが座った桜木の下に、五人家族が座っている。そして、バジオはそこに近寄らず遠くから眺めて、あの桜木をしっかりと瞼に焼きつけておきたいようである。あの桜木に彼の嘗て有した快楽と夢を刻んであるから。
暫らく二人とも無言のままに立っている。夕日に縁取られた彼は彫像のように微動もしない。私は一歩を寄り添って、「まだ覚えてるかな、あの歌。春が去り行ってもまた来たる、花が凋んでもまた咲く」
バジオは「覚えてるけど、でも、それより『年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず』の意味がよく分かってきた」と、目尻に何かがきらきらとしている。直ちに二人とも再び沈黙に陥る。
夕日が沈んで、西の空の果てにかけた最後の一抹の明りも消えてしまった。二人は大阪城公園を後にして、鶴橋にある焼肉屋に入る。
時間がまだ早いのか、店に客はあまり多くない。私達は窓の横にある席を選んで、腰を下ろす。「今日は酔うまで飲まなかったらやめないぞ」とバジオは杯を挙げて、「アニキ、最後まで送ってくれて、有難う。乾杯」と一気に杯を干す。そして、「またアニキに一つの頼みがある」と言いながら、一枚の写真を出した。「ほかのやつは全部処分したけど、これだけを惜しんで残した」見ると、あの二人の落花を浴びて笑っている写真だ。「後でこれを送って貰いたい」と私に渡す。
私はそれを財布に入れて、「必ず。約束する」
すると、バジオは体を軽く叩いて、「ほら、これで、今俺の身元を確認するものが一つもない。それに、アニキにも迷惑がかけられへんし。こうやったら、俺が日本に残ることができるやろう。俺、永遠にここに残りたいんや…」と声が微かに震えてくる。それを押さえようとするようにバジオがもう一杯ビールを干す。
バジオの言いたいことが分かった。きゅっと胸を締めつけられたように覚え、一杯を干して、
「バジオ、すまんな。お前の欲しいものは、俺が与えられないんで、すまんかった」
「いや。この二年間アニキと一緒にいてよかった。いろいろ教えてくれて、いっぱい、いい思い出ができて」
……
「アニキは人間に来世があるっていうことを信じる?」
「今は、信じたい」
「そうやなあ。もし俺は本当に生まれ変わることができるなら、今のようにびくびくとした生活を二度としない、絶対。必ず堂々として生きていく」とバジオは言いながら、目つきを夜空に送る。まるで闇の彼方には淡い夢のような憧れの世界があるようだ。
「バジオ、お前に俺はまだ何かできることがある? あるんやったら、任せてくれ」
バジオは視線を私に移し、暫らく沈黙した後、首を振る。「いや、何も」
そして、一つ大きく息を吸って言いつづける。「俺はここまで生きてきて、あの二百三日が一番幸せな日々となった。それはとも子が与えてくれたもの。彼女に愛と感謝の気持ちだけを持って、怨みに思わへん。俺はアカンやからな、何にも出来へんし、怨もうとしても自分自身しか怨めない。 分かってくれる?」
私はバジオを見つめて軽く頷いて、とも子の失踪の真相を告げることを諦める。バジオにとって最も大事にする宝のようなものは心を鬼にして壊すことができないからだ。
バジオの顔に微かな笑みが浮かんでくる。但し、その笑みは一つの苦渋を帯びている。
何時の間にか、店の中に私達二人しかいなくなった。バジオは時計をちらっと見て、「そろそろ、俺、行くわ」と言いながら、のろのろと立ち上がる。
店を出ると、春の深夜の寒気に囲まれて、思わず身震いする。だが、それよりもっと寒寒としたのは心だ。騒々しかった町が静かになっていて、街を通る人もあまりいない。
二人は街道に沿い、東に向けて黙々と歩く。繁華街の明りは次第に遠ざかり、辺りは暗くなってくる。
突然、バじオは足をとめて私に声をかける。「じゃ、ここで、別れよう」声は穏やかで落ち着いていて、あたかも自分が本当にただ一つの旅をするにすぎないようだ。けれども、この旅は不帰の旅であることが互いにはっきり分かっている。
「アニキ、こんな顔をしたらアカンやで。 アニキらしくないから。あのせりふを覚えてる? 二十年後俺がまた好漢になる」
私は無理やりにちょっと笑って微かに頷く「アニキ、元気でなあ」と、バジオは闇の奥に向かって歩き始め、姿が消えるまで、一度も顔を振り向けなかった。
私は無言のままそこに呆然とバジオの後姿を見送り、骨身にこたえるほどの寒さと淋しさが襲ってくる。
どうやって家に帰ったかはもう覚えていない。ベッドに横たわったら、酒を飲みすぎのせいか、頭が裂けるほど痛んで、意識も朦朧としてくる。何時の間にかドアが開く音がして、そして冷たい風が部屋に吹き込んでくる。私はベッドから起き上がって、玄関にぼんやりと人影が見えたような気がする。まさかバジオが帰ってきたじゃないかと思って声をかけてみる。「バジオ、お前か?」
「はい、アニキ。向こうは暗くて、寒くて、もっと淋しいわ」
「そうやろう、帰っただけでええ。おい、はよ入って来い」と前に歩き寄せて、彼を掴まえようとして手を出す。しかしながら何も掴まえられなかった。
バジオは首を振りながら、後へ退いて、忽ちに姿が闇の奥に消え去った。私は思わず「バジオ、バジオ」と叫んだが、声が咽喉につかえて声にならず、ぱっと目が覚めた。何にもない。あたりは死のような静寂だ。冷え冷えとした月の光のみ窓を越して部屋のすべてを青白く染める。夢かと思うと、ふと一つの何とも言えない悲しみが胸を襲ってきて、抑えようとしても抑えられず、「バジオ、俺も淋しいわ」と、涙が流れて止まらなくなってしまう。
翌日、新聞の夕刊は社会面の隅に一つの短い記事を載せた。「昨夜二時頃、一人の男性が生野区にある十四階のビルの屋上から飛び降り、死亡。年齢は20歳から30歳で、身元は不明。警察は自殺と見て調べている」
夜が更けてきた、私がパソコンの前に座って、とも子にメールを送る。「バジオが自殺した」
とも子の返事が来た。五つ「申し訳ありませんでした」と書いていた。私はそれをプリントして、あの写真と一緒に焼いた。急に、風が吹いてきて、紙の灰が空に舞い上がっていく。
受賞
二ヵ月後、私は引っ越しをした。もちろん、家賃は一つの原因だが、もう一つ、あの家の中では、あまりに多くの悲しみが立ちこめているからである。
荷物を車に積んだ後、もう一度このがらんとした部屋に目を凝らして、バジオがもはやこの世にいないということを再び痛感し、一種の空しさが胸に迫ってくる。思わず嘆いて、死ぬことより、生きていくことの方が勇気を要るという時があるのだろうと認めざる得ない。
まもなく夏休みに入る頃、前期のレポートを書くために、図書館で資料を調べる。偶然新聞をめくると、今回の直木賞の受賞者の写真が目に入ってくる。二人の中の一人の女性に、どうもどこかで会ったことがあるような気がする。名前もとも子。そうだ、もし眼鏡を外すとすれば、そっくり。それに、受賞作品である『徒花』は同じ社会の下層に位置付けられる二人の民族、言語、文化の垣を越える恋が鮮やかに描き出されていたと評価された。もしかすると彼女じゃないだろうかと思えてくる。それで、その思いに駆り立てられ、書店を廻ってこの小説をやっと見つけた。僅か数ページを読むと、間違いなく彼女の書いたものだと確信した。
本を閉じて、「徒花、徒花…」と独り言を言いながら表紙を見つめる。薄ら暗い明りの下で、あの表紙に大きく画いてある花がバジオの顔と化して、「アニキ、俺ここに生きてる」とにこにことして私に話しているようだ。「そうやなあ、お前は自分の命を以って、彼女に願いをかなわせた」
そして、とも子にメールを送る。
「あなたはあなたの欲しいものをやっと手に入れた。だが、その中にバジオの血がしみこんでいることが分かっているのか?」
翌日、彼女の返事が来た。
「私の涙も」
(おわり)