朝、五時半。目覚まし時計のベルが無情に「リリーン、リリーン…」とけたたましく鳴る。
「起きろ! バイト遅刻しちゃうぞ!! 」
目覚まし用に録音した自分の声が容赦なく急き立て、私の安息の時は跡形もなく破られる。「ああ…、また一日の始まりだ。」
布団の中からまだ完全に温まっていない右手を出して、わざと遠くに置いた目覚まし時計を無造作に掴み取り、五つの指を同時に駆使してその耳障りな小悪党を黙らせる。二度にわたって死刑を宣告された死刑囚のように、深呼吸で部屋中に蔓延した冷たくじめじめした空気とともに、まだ温もり恋しい寝所への無念を胸に押さえ込む。溜め息とともに、また始まる変わり映えのしない一日。指令を受けたロボットみたいに、布団を引き上げてベッドから飛び降り、そそくさとバイトに行く準備をする。
12月の朝、高級自動車と道を争いながら自転車で白金の街を駆け抜ける。響きは結構カッコイイが、店のショウウィンドウに映る自分の姿はこの街とはとても似合わない。
「とっうっきょーブッギウギー…」
バイト先で覚えた歌を口ずさむ。かなり昔の歌らしいが、その脳天気なテンポが何故か頭に残って、自然と口をついて出てくる。そのリズムに合わせてペダルに力を込める。そのたびに私のオンボロの自転車は「ズー、ズー・・・」と奇妙な唸りを挙げる。どこが壊れているのかよく分からない。
朝の凛とした空気に自転車と私の唸りを響かせて、バイト先のコンビニにたどり着く。今日もなんとか間に合った。
「いらっしゃいませ!!」
とにかく大声を上げる。ユニフォームの着替えは半分しか完成していない時点でも店長や店員の「先輩」たちからすでに「監視」されている自分の身を守るためには、とにかく大きい声を上げる。
暗い赤色に染まっている分厚い両唇を上下に開きながら、店長が朝礼を始める。
「最近、外国人による偽札両替事件が多いから、気をつけてね。そう、特に中国(‥)系(・)ね!」
気のせいか、一瞬店長の視線が私の方へ向けられる。
(…くそっ!)
こみ上げる感情。同じ中国人だけど、私はその「中国人」とは違う。
「あっ、そうですか。分かりました。」
理性的に笑顔を作りながら、両端を上に持ち上げた唇が反射的にそう答える。そんな受け答えもすっかり慣れっこになってしまった自分。複雑な思いがある。
店前掃除10分、トイレ掃除10分、商品補充40分・・・、朝のバタバタの中でようやくバイトの四分の一が過ぎる。
「…キュルキュルぅぅぅ」
情けない嘆きが聞こえる。お腹から朝ごはんの注文。その時、レジカウンターに蟹缶詰が二本、そっと置かれた。その素敵な姿。蟹‥、なんて魅惑的な響きだろう。大きなハサミ、スレンダーでそれでいて優美な脚、つぶらな瞳‥。
「お…ます…」
蟹…、蟹…、英語でCanser…。
「おね…す…」
カニ…カニ…カニチャーハン…。
「お願いします…」
蟹と戯れる私に、おばあちゃんのやさしい声が響いた。
「…ああ。いらっしゃいませ!!」
夢を打ち消すように、私は大声を出した。
「うちの猫ね、お腹空いているからね、早く買って帰らなきゃ。もう、あの子はね、蟹の缶詰しか食べないのよ。うっふふ‥」
おばあちゃんはやさしそうな笑顔と細い声で私にいろいろ説明しながら、親指と中指で財布から一万円札をゆっくり取り出して、上品にカウントの上に乗せた。
(…私をペットにしてくれない?)
頼みそうな自分を、よだれと一緒に飲み込んだ。
午前十時二十五分。コンビニのバイトから部屋へ戻る。冷蔵庫の前に引きずり、扉を開ける。中ではすっかり黒ずんだバナナが一本、申し訳なさそうに私の帰りを待っていた。寒さで震える両手でその黒衣をはぎ取り、食べられるところをとにかく全部飲み込んだ。束の間の休息。午後にはまたラーメン屋で四時間のバイトがある。第二ラウンドに備えて、私はタンスの奥に仕舞い込んでいた隠し財産に手を伸ばした。それは半年前、中国にいる親から贈られた牛肉の干物。その内の二枚を口に頬張る。その隠し財産は部屋の湿気を吸い込んで本来よりだいぶ軟らかくなっているはずだが、喉を通るたび破裂してしまいそうな痛みが走った。
父さん、母さん、そして妹の三人が店で買って、母さんの一ヶ月分の給料に相当する国際便で日本へ贈ってきた、私の大好物。拳に汗を握りながら、小包の重量を測って料金を計算する郵便局の局員からの返事を待ち、言い渡された送料の高さに唖然としながらも、歯を喰いしばって配られたばかりの給料を思い切って全部渡した母さんの姿が、まぶたに浮かぶ。水を飲もうとしたら、熱くて塩辛い水がすでに口の中に蔓延していた。
午後十二時半。わいわいと客の騒ぎ声が左右から注がれ、頭の中でごんごんとぶつかる。ブー、ブーと注文ボタンの叫び声に催促されて、私は蜂のように十畳半の店内を一人で駆け回る。熱いお碗を腕に載せラーメンを三つ同時に運んだ痛みも冷めぬ間に、「人参一本!」「キャベツ洗ってちょうだい!」と厨房からまたオヤジの怒号が響く。
午後二時半。昼の喧噪がようやく過ぎ去り、皿洗いの時間。蒸気を潜り抜け、厨房の水槽の前で腰を90度に曲げて、山のように積み重なった各種のお碗や皿などを洗う。やっと最後のひとつを洗い終わり、消毒器の中に入れたところに、後ろからオヤジの奥さんの声が聞こえた。
「今日のバイトは4時半だったわね。ほら、今日ね、お客さんが少ないから、3時半までにしてくれない? 先に帰っていいよ。」
腕時計をこっそり見たら、3時45分を過ぎたところだった。
(またか!!)
また15分タダ働きってか!? 首を水槽の上から上げて、奥さんに向かって言い返そうとしたら、あっ、腰が動けないじゃないかよ。動かない身体に悪戦苦闘している間に、奥さんは奥の方へそそくさと戻っていった。
渋谷。人ごみの中を自転車で通り抜けるのは本当に難しい。赤信号が青に変わるのを待っていたら、向かいからやってきたおじいさんが睨みながら「お前、邪魔なんだよ!!」と吐き捨てて去っていった。鼻は少しすっぱくなったが、涙を流す元気はなかった。
一瞬、この都市から放り出されたような気分だった。
半年間伸ばし放題でもはや鳥の巣と化したボサボサの髪を、タイムサービスでカット料金が半額という美容院の割引券を手に持ちながら、渋谷の街を駆け回る。ふと目の前に一人のガードマン。溺れる者は藁をも掴む。
「すみません、ここへ行くには、どう行けばよろしいんですか?」
割引券に書いてある地図を持ち出し、私は笑みをつくって目的地を指しながら、できるだけ丁寧な日本語で尋ねた。ガードマンが口を開く。
「あなたには口がついているなら、口で言いなさい。」
一瞬何があったのか分からなかった。何か私にいけないところがあったのだろうか。私はもう一度、自分の言葉遣いに気をつけながら聞き直した。
「だから! 口で言いなさい。あなたには口はないの!?」
ガードマンはそのまま去っていってしまった。
いろいろ迷ったあげく、自分の力で出美容院まで辿り着いた。豪華なところだった。店の豪華さに比べ、私の心からはさっきのガードマンの一言がずっと引っかかったままだった。店の明るい照明が、なんだかにじんで見えた。
帰り道、パトロール中のお巡りさんに止められた。
「自転車のランプをつけてください。」
「あっ、つけなければならないんですか。すみません、知らなかったんです。」
自分で言った途端、私は余計なことを言ってしまったことに気づいた。お巡りさんの微笑みが見る見るうちに凍る。自転車の購入先や購入日などや13分くらいにわたる尋問が開始した。
「あなたたち中国人は日本でろくなことをしないからね!」
最後に一言吐き捨てるように、お巡りさんは去っていった。
「また『中国人』か…私たち中国人は日本でろくなことをしないのか。」
その一言が頭の中で鐘のように何度も鳴り響いていた。
どこへ行っても私は「中国人」。そんなことは分かっている。それは私にとっては誇りでもある。自分の生まれた国を誇ることは別に不思議なことではない。W杯の熱狂を思えば誰の心にもある誇り。だけど私は「中国人」である前に「私」でもある。日本には多くの中国人がいる。その中には残念ながら、いい人とは言えない人たちもいる。そんな人たちと私は「中国人」というただ一点で結ばれ、同じかごの中に放り込まれる。私は私なのに…。「日の出ずる国 ニッポン」生死の境を彷徨い、光を失いながらも日本にやってきた鑑真和尚のことが、なんだかとても情けなく思えた。
深夜1時。人の姿が見えない通りを寂しく潜り抜ける。
「ブー、ブー…」
相変わらず自転車は耳障りな音を立てて走る。だけどいつもはうるさいだけのこの音が、いまは私に話しかけているような気がする。
「お前も疲れたなあ! なぁに、気にするな。オレがついているよ!」
私は身体を自転車から下ろした。ハンドルを握っている両手が温かく感じた。寂しい帰り道は「二人」で歩いている気がした。どんなことがあっても、この自転車だけは私を見ていてくれる。そう思うとこのオンボロがなんだか愛おしく、心強く思えてきた。
遠くには、星たちが空にきらきらと輝き、月がモザイクした光をやさしく、静かに放している。この風景だけはいつもと同じだ。私はオンボロの手を取って、街灯の少ない道をとぼとぼと帰っていった。終わることのない日常。逃げることの出来ない日々。どんなに辛くとも、私の生きる日常はここにしかない。私は中国人。いままでも、そしてこれからも、私はこのことを誇りに思い続けていく。私は明日も生きていく。このオンボロの相棒と共に。
「とっうっきょーブッギウギー(ブー)、リズムうきうきー(ブー)、こころズキズキワクワクー(ブー)…」
私は再び覚えたての歌を口ずさみながら自転車を走らせる。私の歌声と自転車の唸りが夜の住宅街に響いた。
夜風が頬に冷たかった。