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2003年留学生文学賞優秀賞

魚字 (ぎょじ)

Renata Lucic (レナタ ルーチチ・クロアチア、ボスニアヘルツェゴビナ

1975年ボスニアヘルツェゴビナ、ワレシ生まれ。1996年サラエボ大学 入学。1997年ドイツ・フンボルト大学編入。ロシア文学、ドイツ近現代文学、日本文学を専攻。1999 〜2000年東海大学交換留学生。2002年立教大学日本文学科入学。現在に至る。

この不思議な国では人々は本や雑誌などのような印刷物だけでなく、魚も読んでいる。

これは、日本人がお箸である魚を本みたいに開いて、その骨がその身にどう言う模様を描いているかによって、自分や他人のこれからの運命を読んだりするような呪文的な読み方であるわけではない。少なくともこういう占い方が存在するのが私は知らない。
読み物として、どの魚でもいいと言う事でもない。

さて、日本人はどういうやり方で、なぜ、どの魚を読んでいるのかこれから、とりあえず“普通”の文字を使って書いてみたいのです。もし、この珍しい現象を説明するのに、文字だけの力では足りないんだったら、魚でも使ってみようかな。

ここにいる間、こういう気持ちや考えの表し方も実行できるようになるかもしれません。

普通は日本へ来たら、どういう風にお箸で魚やラーメンを食べれるのかが外国人にとっての問題とし考えられているのだが、私にとってはどういう風に魚が読まられているかが問題になってしまったのは、それなりの理由があるのかもしれません。

では、いったい、なぜ、誰かが、魚なんかを読みたがるのでしょうか。あんなに本屋さんでゴキブリのようにいっぱい本があるのに。

もし、ここはもっと字の少ない国、例えばあるヨーロッパの、痩せていて、つまらないローマ字しか使われていない国などであったら、いつかありふれた字でその国に住んでいる人たちが満足できなくなってしまうことを納得できないわけでもないけど、日本ならば、やっぱり、字の貧しい国だといったら、嘘になってしまう。

それよりも、字が多いといっても、なんだかこれでも言い足りないような気がするけど。

文字で「足りない」と書くと、これはあまりにも弱すぎるが(多分これは「足りる」という言葉はは一つの足しか持っていない事実のせいでもある)、同じ事をなにかの魚で表現してみれば、日本はどれほど字の天国になっているのか、ということが伝わってくるかもしれないね。

しかしヨーロッパ人の私には日本人並に、魚などで書けることもなければ、それを読めることもない。(まだと言ってもいいのかな。)

自分の想像力を布団のシーツみたいに敷いてみれば、なんとかして、どういう風に魚で書けることも可能になるかを想像できるようになっていく気がするけど。それだけでなく、たまには自分も普通の書き方と違った書き方もしていたりすると思うのだ。

これはどういう書き方かというと、こっちに来てから私が白身などの魚をお箸で取って、その魚から垂れてくる油などでお皿のうえに何かを書いたりしていたと、今になって言えるような気がする。

しかし、残念ながら自分が書いている途中だと、その時に気づかなかったし、書いている事で何かを表そうと言う意識が少なくとも、私の入っても良いことになっている頭の部分にはなかったのです。

が、「立ち入り禁止」の領域が私の頭の中に少なくはないため、多分この魚で私も何かを書き上げたかも知れません、手紙とか。と言う事で、この手紙に誰かからの返事がきても、そんなに驚かないと思う。

でも、その返事が来る可能性はそんなに高くないのはなぜかというと、私のお皿は毎日自動食器洗い機に、お箸によってその体の上に書かれた文章を汚れといっしょに洗ってもらうからです。

私も毎日、風の手に自分の体に新しく書き刻んだ物語を知らん振りして丁寧に洗ってしまうように。

普段は犬が飼い主に似ていると言われるが、それと同じようにお皿も持ち主の振る舞いを真似している。もし私もシャワーを浴びる前に、ちゃんとその日は自分の上に何の変化が起こっていたかを反省する習慣の人だったら、多分こんなに簡単に全部「汚れ」と名づけないかもしれません。そして私のお皿も、それをみて、私がその上に残した文章がその気に入れば、何かのやり方で守ろう、残そうとするでしょう。

でも今までのやりかただと、 多分お皿の物語や日記や手紙は皆、下水の中。

しかし、文字や文章には独特な論理と気持ちがあるというから、多分それらが自分自身の保存の仕方を使いながら、人間には知らない形で残こっている。多分まだ全部は失われていない。だって文字化けという名前の文字のお化けもいるから。
今度、文字のお盆でもあげてみようかな。もしかして、読みや分かり損なった字の魂はみんな帰てくれる。

しかも、言っているような文字には特別な“レイ"があるから、多分、その私の誰かに書いた手紙も異様の瓶の中に、自分の旅を初めていて、宛先の人に読んでもらって、その人が私に返事を書いてくれる事になる。

Starbucksでケーキを食べたときに、この手とケーキのスプーンによって書かれた手紙の返事が、隣にいた人によってその後すぐに自分のケーキで書かれていて、それが私に分からなかったというようなことがなかったといい。

でも、自分がよく鈍感でいるから、多分そのメッセージも見損なってしまったのだ。

ラジオでは交通情報があると同じように、不思議な瓶の中に積み込まれた、東京などで無数に住んでいる人間の無人島の間を旅している手紙のコースを知らせてくれる"手紙交通情報"があってほしいな。それがあれば、多分、私という無人島と隣に座っていてカラメルマキアトを飲んでいる無人島の間の距離がより短くなってくる。

無人島から魚に戻ろう。

こういうお皿の上の書き方より、もっと普通の書き方を想像しようと思えば、意識的に魚を釣らないと行けない。

ぁ、一匹が取られた。

可哀相な川鱒の尻尾を捕まえて、それで筆みたいにその頭で原稿用紙の上に「元気でお過ごしでしょうか」等と書いてみれば、書けないわけでもない。「元気」という言葉は元気そうにも見えない恐れがあるけど。

書く際に、墨の代わりに醤油やなんとかのたれやらを使ってもかまわないけど、一応、この国では書く事ではなくて、魚を読む習慣があると聞いたんだけど。

はて、魚を読むことか?

私の想像力のシーツも「止めろ」と歪んだ顔で叫ぶ。もう少し敷けば歯ぎしりに似たような、ぎりぎりとした音を立てながらきれてしまうって。

あ、そうか、そうならば,シーツなどを止めて、魚の羽を使って「字の天国」まで飛ぼう。

そのうちに病んでいる想像力のシーツも治っていくかも。

「字の天国」というのは、もしどこへ行けばいいのかわからない難民、いや、「難字」(なんじ)がいたら、それが日本に来れば絶対 ここで新しい故郷を見つけると思わせるような国だ。

どの字でもここにはビザなしで住めるのだ。そればかりでなく「外国字登録」等もしなくても良い。つまり「天国」。

うらやましい。

人間として生まれてきたのは何の罰かな。

もし次の人生で字として生まれても良いならば、私が今、日本で暮らしながらやっているのが、その準備なのかもしれない。毎日、色々な字の見本で囲まれて、「この字にしない」、「あの字はどうかな」と、何に成りたいかをそのうちに知る。身につけ。身に刻む。

前から日本の広告や看板の字に夢中だった私は、ここに来てからすぐ、それらを目で探さずにいられなかったのだ。改札口に向かったら大きな戒めの看板があって、裸の体の上に色々な色の字の線がぐるぐる左から右へ上から下へと書かれてあった。奇麗と思った途端、その宣伝は癌などの病気と関係があると分かって、生まれ変わることなどと関係なかったようだ。

人間と文字の間の生き物だと思われやすかったが、そうでもなく、只、人間の体は戒めの紙として使われている。これが恐くてもやっぱりできれば、死んでから字になってみたい。

しかし、今の自分が字になる事で、恐ろしいことが一つある。

私が文字や文学を好きであっても、いつもこれらに対して、誠実であったわけではない。

例えば、よく汚く字を書いたといわれた事があって、考えてみればやっぱり私の字が読みやすくはない。どうしてこんなに早くて、心電図みたいな字ばかり書いているかと言う事を考えてみたら、それには惨めな理由がある事が分かった。

自信を持てないからだ。

ベルリンで講義を聞いたときに隣にドイツ人が座っていて、ドイツ人でない私がApokalypse、つまり「末法」が一つのPそれとも、二つのPで書いたかなということで(Pの数に末法の激しさが依存するかのように)、不安になって、この言葉を書くために使う字をどこかで不自由にするのね。

インドなどで自分の子供に体の一つの部分を、うまく乞食になれるために不自由にする親と、講義のときのメモをする私が、どこかで似たようなところがある。

気の毒な人間。

これを見ると、カルマと言うのがあるんだったら、たぶん次回に生まれる前に、字になろうとしていたら、ある裁判らしいところで、普通は死んでからの事なんですけれども、私が訴えられることになってしまう。これまでどういう罪を起こしたかと言う事などで。

私の手によって、体の不自由な字にされてしまった字が私の前に立っていて、このわたしを仲間にしてくれる事なんかを想像できないだけでなく、絶対だめだと、怒鳴りつける。それで裁判が終わったわけじゃない。つぎに、罰として私が生まれ変わらなければならない姿は彼らによってこういう風に決められている:

前の、つまり今の、人生で読みにくくく書いてしまった字を何千何万回、奇麗に原稿用紙に書き移さなければならない。朝から晩まで。この決まりで、もっともひどいのは、自分が書き移さないといけないことになっている字を絶対に読めない事に決まっていることだ。どこまで頼んでも、許しを祈っても、復讐している字の耳は聞こえない。それは彼らの人間との共通点。

だから、本当に字になりたいかよく考える事だ。ビザやパスポートの点では利益があっても。

日本に来て魚も読める事が分かったら、多分、やっとうまく字と魚と自分が結べると考え始めた。

今まで魚になりたかったことはかなり多かったのと違って、字になりたいと思ったのは初めてだ。

水があればすぐその中へ飛び込みたくなると同じように、いい本があれば直ちにそれに入りたくなっていくのに、今まで文字の一つに成ろうなんて思った事はなかった。

国によって、その習慣や人たちの常識の捉え方が異なっているだけでなく、自分が場所を変えることによって自分がなんになりたいか、その「モノ」も変わって行く事に気づいた。

今まである国に行ってその国の生活に慣れることにつれて、私はその人々の一人になりたかったと今になって言えるような気がします。
いつ、なぜ、こういう希望が始まったのか、当時は分からなかったし、今もよく分からないことなんだけど、これがうまく行かないと分かったら、いつかその欲望がついてしまったことに気がつく。

その経験や失敗を通して今の私は賢くなった訳ではない。

「日本ではこのままじゃだめで、字になれないで生きてはいけない」などを、思っているわけでもない。「日本人になるより日本の字になるほうがやりやすい」と思っているわけでもない。

ただ単に、この国は字の天国だと気づいたとき、やっぱり自分の中のある隅でずっと前から字になりたかったことが分かってきた。これが正しくなければ、こんなに、この自分が言葉に依存していることの理由が死ぬまで分からないままのことになっている。これを分からないほうがいい理由もあるかも知れません。

日本に字に囲まれながらのままでいるのが、自分の字への第一段階かな。

でもここは、あまりにも字の豊な国だから、少なくともこの人生は、「字生](じせい)になるために日本で、準備をしなければならないと言うことになってしまう。

「また、どこかに長くいる事の言い訳を探しているの」とちょっと治ってきた想像力のシーツの協力を受けて、私の失礼な良心が聞くのだ。

これを無視して、私が考え続ける。

ここで使われている字の皆と顔を合わせて、あなたはいい、君はいい、と考えるには多分この人生も足りないかもしれないし、ここでは魚も読める国だと聞いてから、この問題をもっと複雑に感じる事になってしまった。

どうせ魚にもなりたかったんだし、魚にも字にもになれると選べるならば、もしかしたら魚でいいかも。それともやはり字の方が…-

悪循環なのか只の循環なのか私には分かっていないけど。

しかし、私が字になるのならば、絶対ローマ字に成りたくないことだけは少なくともはっきり分かっているつもりだ。

なぜならばこれがあまりにもありふれた存在だからというだけでなく、なかには、差別されているローマ字もあるからだ。「汚い」と言われて、誰にも読めなくて、悲しくその頭を下げて、背中を丸めて、もっと読みにくくなる。こんなのを人間のままでも結構やってきたから、このために字にならなくてもいい。だから、とりあえずローマ字を止めることにする。

でもあの背中のまがったローマ字らも完全に望みを失ったわけではない。彼らも自分を読める、つまり分かってくれる天才、と言っても普通の人もできるけど、を静かに待っている。だって魚をも読めるこの国の中で蝸に成りたくなってきた老人の姿に近づいたローマ字を読める人がきっといるでしょう。

魚なら「鯖」(さば)だって。

「鯖を読む」と初めて耳に入たときに、私がこの「ヨム」をどの字で書くのかと、どきどきしながら、辞書を引けば、期待したとおり、魚が読まれているときに、これは本の場合と同じ道具で行われている。

ああ、良かった。でも、どうして魚かなあ、芥川龍之介ではなくて。

魚の中にも様々な話が埋められているのを分かっている人がいるはずだが、鯖が読まれている人は,大抵の場合には、自分の年を隠したがる女の人に過ぎないらしい。

彼女らはこれをどういう風にやっているかというと、まず、魚の目をじっと睨んで、その魚はお腹が空いているかどうかを確かめること。

もし空いていたら,一才や二才、できれば十才まで、食べてもらう。

美味しく、骨まで。

魚のお腹の中で消化されている年がどんどん時間性を失っていて、ついた嘘がばれてしまう恐れがなくなる。その不思議な宴会は鯖とその女の人だけの秘密になって、魚のも時間のも価値を高める。

つまらない何年間のままで一生を送っていく恐れのあった時間が、鯖のお腹の中で自分の事を大事に思い始める。

もしかして私は、何かの卵だ。

自分の事を頭の中でぐるぐる回って考えている時間も危ないもんだが、これは別の話しだ。

おまけに、その鯖も、もし年を隠したがる女の人と目を合わせなかったとすると、誰かのお腹の中でつまらなく,済ませただけの運命だけれども、こういう風に時間と妊娠したなんて、どれほど素晴らしいなのか魚にも文字にも表せるもんじゃない。

これで時間も鯖も女の人も満足で、これがありふれた「読む」と関係あるかどうかはまったく無意味な事だ。

概念の空っぽな理屈に過ぎない。

「私をも仲間に入れて!」と、いろいろ考えた上、まだ字も魚も年を隠したがる女の人でもないくせに私が頼んでみた。

駄目だって。

仕方なく日本にいる間、色々な字と出会いながら、その字の意味、自分自身の意味を問わなければならない。

字を身につけるかと言うだけの問題ではない。どの字が自我に成るかの事だ。それでは日本、これからも、4649ね。

4649 (よろしく)と書いて、今度は魚などの動物やほかの生き物の世界に触れることではなく、数、つまり普通の感覚ではある意味で言葉の向こう側に立っている、あの乾燥した、どの気持ちでも持っていない、裸か硬い殻を着ている、あの数字に。

コンピューター学や数学や物理学ならば、その道具みたいに使われている数字が、芸術や文学の立場から見ると、どこかで敵の場所に立っている意見が少なくないような気がします。

もし、ある日、どこかの場所で文字と数字が目を合わせながら、向かい合っていたら、

絶対数字のほうがお金持ちで奇麗な服を着ているか、あるいはこれからフィットネスクラブへ行こうとしているような格好をしていて、頭が悪いとは、まあ、そこまでは言えない事だが、数字の奴にはやっぱり何かが足りない。どこかで文字の前の雰囲気の中にいると、それがお金持ちの、頭が切れている野蛮人に見え始める。

可哀相な番号ら。

鶏と卵とどっちが古いかの質問の代わりになれそうな質問がある。

それは意見と偏見とはどっちが古いかという謎なのだ。その答えはまだ知らないんだけど、数字には気持ちがないと言うのはまちがいなく偏見なのだ。

だって、日本では七番と九番がいっしょにいると涙が出ることもあるのだ。

79と書いて「なく」と読むそうだ。

今までこう言う風にないたのは平安京の鶯だけで、つまりなく際には、涙ではなくて歌が生まれたのだが、これから涙でのなくのを書くために、この二つの番号が使われるようになる可能性もある。

もちろんそれが今まで起こらなかったのは、歴史の試験のために、いつ、ある子供や大人が泣いていたと言う事より、都が奈良から京都にいつ移ったとの事の情報を覚える方が意味があると言う見方のせいもある。

でも人間が泣く事を忘れていて、それともできなくなってきた時に、泣く事も多分歴史的な出来事に成ってしまうのだ。その時に子供たちが数字を使って最後の泣いた事のある人の生年月日などを覚えようとする。

この時がきたら私がもう魚でも文字でもになっているといいけど。

要するに、数字の中にも言葉が眠っている。

あるドイツの詩人の言うには,すべてのモノの中に歌が眠っていて、もしあなたが(つまり私たちが)魔力のある言葉を当てたら、世界が歌い出すって。

でも日本人の子供たちは魔法ではなく、試験の勉強をするときに、世界に面白い歌を歌わせる。数の歌を。

いえいえ、風の歌ではなくて数の歌、漢字を間違っているわけでもなくて、勘違いでもない。

ユダヤ人のカバラの神秘と関係もなく、ただ試験の準備をするときに番号の歌が生まれてくる。

「794鶯平安京」と歌のように、鶯の歌のように、番号と言葉のこの不思議な関係を旨く使いながら、歴史的なデーターを覚えるわけ。

「鳴くよ鶯…」と言うのを知っているの、と初めて聞かれたときの私の気持ちを正直に言って今でははっきり覚えていません。

が、多分、感動以外に「もういいんじゃないですか?」みたいな事を思った様な気がします。「漢字とカタカナとひらがなで充分ではないんですか」。

数字を使って言葉を書くのは日本語を勉強している外国人には可哀相じゃない?

当時は文字としての魚などの存在は、無邪気な私には幸いな事にまだ分からなかった事だ。

もし「鶯と鯖」のショックを同時に受けたとしたら、多分もっと簡単な言語の方に逃げたかもしれない。

もちろん、こんなのは嘘だ。

愛というのは簡単さなんかを求めている気持ちとは関係ないモノだ。これは残念であるかどうかは別として。

恋人を探す、と言っては少しおかしいが、まあ、恋人を探すと同じに、惚れる事のできる言葉を捜すときにもこれが素晴らしい言葉でないと行けない。

というと、きっと「794鶯平安京」などの話を初めて聞いたときに、私がこれを自分の日本語に対する「惚れ」にもっと根拠付けることとして感じたはず。

ほかにも日本語がどれほど魅力的な言葉なのかを無数な機会に感じたことがある。

鎌倉の大仏を見にきていた大勢の観光客から逃げようとして「長谷寺」の前庭に立って、お地蔵様についての説明が書いてあった看板の文章を読もうとしたときのことだ。

旧字で、読み慣れていない縦書きで、話の粗筋しか分かっていなかった私には何とか…たるなどの語尾が撫でられているような感覚を与えてくれた。

黙っているような言葉でなく、その看板の言葉の響きがあまりにもはっきり聞こえるような気持ちの中で子守り歌を聞かせてもらう様な気持ち、ああ、日本語よ、素晴らしき言葉。

泣きたくなった。愛されすぎたような、幸せなのか悲しいのか分かる事のできない様な気持ちの中。

私はよく言葉によってこういう甘い「暴力」をかけられてしまう。

言葉、特に書かれた言葉がなかったら生きていけないような生き方で、もう何年間も自分との言葉との戦いの中で悩んだり幸せだったりしてきた。

「溺れる者は藁をもつかむ」と言う方針で新しく覚えた一つ一つの言葉を手の中に掴んで、後一息を伸ばしてもらった気持ちの方で、私と他人に成っていく言葉の湖はどんどん深くなり、いつか絶対溺れるよ、と戒めが足に伝わってくる。

自分が秤になって、左手から砂のように漏れていく母国語、もう教科書や今の百科事典の中にも存在しなくなってきたセルビアークローアチア語の言葉が指の間から落ちつつが、右手には流れ星の日本語やドイツ語の言葉が落ちてくる。

その絶えず変わったりする両手の言葉の重さに引かれながら、自分の体が狂ってきた振り子みたい。

落ちていく砂を捕まえようとするか、流れてくる星にうれしく手を広げるか、迷いながら幸せと悲しみの間にあちこち揺れる振り子。

もうそろそろこの刺激、言葉から生まれてくる自身の地震を堪れなくなりそうで、二つに割れてしまう様な気持ちになってきた時に「バカ、バカ,馬鹿ああ」と歌うようにあらゆる物に言われてきた。立ち止まってみた。

木や石やごみ箱が皆話す。

木と木の間にいて、これらの言葉が分からない事を、今まで不愉快に感じた事がない、不思議な事に。でも私は絶対木の言葉が話せないのだ。

それなのに、自分が木の言葉が喋れなくても、落ち着きいっぱいで、その間にいって,気にしない事ができるのに、どうして人間とは違うのか。

多分、木の場合では聞くだけでも良いからだ。木の葉っぱの無数の舌が囁いて、あるいは叫んでくることの意味を分かっている、己惚れに近い落ち着きでいて、安心だ。

人とは違うのは、やっぱり言葉が耳にきたら、殆どの場合には何かを言わないといけない気分になってしまうせいなのだ。それが好きな場合でもあれば、大嫌いな場合もあるが、これをここでは論じるところではない。なぜなら、これを説明しようと今始めたら、私はまた、人間が普段に文字や言葉として考えていることの奴隷になる恐れがあるからだ。

それより違う言葉も便りにして生きていきたい、少なくともたまには。

これを日本へ来る前に感じていなかった訳ではないが、こっちにきて、色々な人と出会いながら、言葉に夢中な私にどこかかで見逃す、違う種類の言葉もある事が分かってきた。

ある、日本語との苦労を私に話してくれたスロベニアの建築家との出会いの事だ。

「僕も黄色い線の意味をわかってから色々楽になったのよ」

「黄色い線?もしかしてあの『黄色い線のうち側に御下がりください』の黄色い線かな。この人は電車が危ないからそれを分かった事で、助かったって言いたいのかな。」

違いました。

どこかのアナウンスで助けられると思えるような人間ではなかった。

だったらどの黄色い線なの。

「ある道のようなものだ」とその説明が始まる。

「建築を勉強してきて、あの駅等でゴムからできていって粒がついている線路みたいな長い、細長い、カーペットみたいな黄色い線があるでしょう、あれが目の不自由な人のためになる事を勉強してきたが、自分のためになるなんて思わなかった。日本に来る前まで。」

ある意味で"日本語不自由な"彼には、あの線を便りにしたことは、駅でうまく出口を見つけることや、乗り換える事のために成ったと語りつづける。「そればかりでなく、電車の中にいるときのアナウンスもわからないでしょう、『左側のドアが開きます』など。だから僕はいつもその上にピカピカ赤く光っているほうのドアに向かっている、絶対これが開くから」。

「目の不自由な人のためになる黄色い線、赤いランプ?」と耳以外にあらゆる感覚がラップされているらしい私はぎょうてんして、とりあえず目から鱗ぐらい削ろうか。

「まず、自分の門の前のゴミを掃かなければ…」とボスニアヘルツェゴビナでの諺がいう。なるほど。

「臭いものには蓋」との言い方に違和感を感じたのに、自分の腐っていく感覚にラップなんかをしてしまって恥ずかしい事だ。

自分を電子レンジに入れただけでまた暖かくなって、再利用できることなんかを信じてきたかのように。だめだ,一回腐ってきた目や心は、多分捨てるしかない。だから、ラップなどを止めて、うちへの帰り道でちゃんと黄色い線と知り合いになってよ、と自分が自分にいう。

建築家のアンドレーが私の中の嵐をわかったように微笑む。

ぁ、黄色い線も言葉なの。

日本はいくつの文字体系を持っているか、そろそろ知りたいとも思ったりするけど、それが知れるものだろうか。
文字、言葉、動物、植物、あらゆる体の踊り場になっている、日本語。
言葉も動物のように、尻尾を持つ事ができるのも初めて日本で知った事だ。その尻尾は「語尾」というものだ。語尾が長くなればなるほど、その持ち主はもっと偉くなるという。長い長い衣のように。この尻尾の中もまた文字が化けして、「しゃもじ」などの形で不思議な存在でできている語尾もある。

とにかく、この国は、様々な文字と筆、筆も又尻尾のように、文字と筆を使いながら、絶えずに私に手紙を書いているのだ。私は返事ができるように努力すると言ようとした瞬間に、嘘だと分かっていて、私も返事ができるように自分をあらゆるラップから自由にさせてみる。

目も耳も手も心も広げて、世界といっしょにぐるぐると。

この考えの終わりに一応「。」を書く事にします。でも、日本語のマルはヨーロッパで普段使われているまると違って、小さい豆のようで、あるいは小さい卵のようで、考えを終わらせてくれない。多分そのせいで、日本語の発言がよくあいまいだと言われている。私はいまこのマルに、まるでありがたい。終わらなくてもいいと小さい空間を与えてくれるからだ。何かあったらそれに入れそうな空間を。

魚の卵に似てないわけでもない。

(原文のまま掲載。転載不可)


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